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静けさ/木・樹

 投稿者:編集部  投稿日:2016年10月22日(土)15時08分28秒
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          静けさ/木・樹



  
  静けさ


 最近、私に最も添う言葉は「静」だ。
 「おはよう」「おやすみなさい」「いただきます」「ごちそうさま」
 こういう何気ない言葉、毎日口にしていた時にはたいして意識さえせずに使っていた言
葉が、身近から消えてしまった。盛時には、五人の家族と一匹の犬がいた家、声と音で満
たされていた家が、今は静かだ。
 古い木造の家は声をたてるという。時に、二階や屋根裏で「ミシッ」とか「カタッ」と
いう音がする。今まで気がつかなかった。静かだから聞こえる。聞こえるから、なお一層
感じる静けさ。本当に不思議な静けさだ。


  静かな風景


 この五十年の間に、いろいろな国に住んだり旅をしてきた。数えてみたら二十三ヶ国に
及んだ。アルバムをめくると思い出は尽きない。遠い過去の出来事のようにも、つい近頃
のことのようにも思える。いつも旅の道連れだった夫が突然逝ってしまった今、心に繰り
返し蘇る“静かな風景”のいくつかを辿ってみよう。
 夫と私は英国が好きだった。大きな町の外は、羊が点在する緩やかな緑の丘、それを囲
む石垣、こんもりとした木立、オークの大樹、蜂蜜色の家々、広い空、いつも変わらぬ静
けさに満ちていた。
 二〇一〇年夏七月、ロンドンからソルズベリーヘ向かう車窓には夕焼けの空か広がって
いた。斜めの光が雲間から幾条にも差し込み、野に降り注いでいた。「天国への梯子みた
いだね」。普段そういうことを口にしない夫がつぶやいたのが印象に残った。
 今、その時のことを思い出すと、胸にこみ上げて来るものがあり涙があふれてくる。
 ブルガリアは古い歴史と文化の国だ。パーティーで「日本は二千年の歴史のある国で」
と言ったら「こちらは四千年だ」と返された。私には野も山も老成しているように見える。
ソフィアからリラ山中にあるリラ僧院に向かう峠道、眼下には小高い山並み、麓にかたま
る橙色の屋根に白い壁の家々、杖にもたれる羊飼いのまわりに羊が群れる野……
中世からそのままの静まりかえっだ眺めだった。

 ローゼン僧院はブルガリア南部の町メルニョクから東へ六キロにある。僧院の門前に大
きな樹があり、紅白の花が咲いたように明るかった。近寄ってみると、春の訪れを寿ぐ祭
りに飾られる紅と白の毛糸の飾り物がたくさん吊り下げられていた。門を入ると、地の底
から湧き出るような深い男声合唱の歌声が聞こえてきた。静かな雰囲気の僧院に流れる深
い豊かな歌声は、今も蘇り慰めてくれる。

 二〇ー二年秋にイタリアを旅した。ローマから列車やバスを乗り継ぎ、トスカーナ地方
の小さな町ピエンツァを訪れた。着いたのは午後も遅かったので、さっそく町を散策した。
十月終わりの夕暮れの気配が、城壁から見晴らすオルチャ渓谷の野をつつみ始めていた。
曲がりくねった道に沿った糸杉が長い影を落としていた。城壁にからんだ蔦や萩や草も色
づき、鳥の声が時折ひびいていた。遥か西方の、重なる小高い山並みに陽が沈もうとして
いた。空には、少し紫がかった擲燭(ツツジ)色からゆっくりと青紫の董色、竜胆色へ、さ
らに紫から赤紫の菖蒲色、牡丹色へと染まり移り変わってゆく雲がたなびいていた。陽が
山の端に沈むまで、二人で黙ってじっと見つめていた。残照がいつまでも残っていた。
 その時、何の理由もなく、ヨーロミハヘ来るのはこれが最後ではないかという思いがふ
いに心に浮かんだ。夫も口には出さなかったが、そう感じたのではないだろうか。
 あれから二年後、夫は亡くなった。
 あの穏やかな西の空、夕陽の彼方へ還っていったのだろうか。
 忘れられないイタリアートスカーナの秋の夕暮れだった。

        
                      トスカーナの夕暮れ





  木・樹


  エゴの木

 庭に一本のエゴの木がある。この家を建てた時に植えたもので今年で四十年、毎年伐っ
ているので背丈は五メートルほどだが、暗紫がかった褐色の幹回りは四五センチくらい、
がっちりとした体格だ。
 食堂の私の定席から真正面に見えるので、今年は春先からつくづくと眺めて過ごした。
いろいろな気づきがあった。芽ぶき前の枝は細く曲がり、まるでバレリーナのように軽や
かに跳ね、芽ぶき直前になると枝先にまで生気が行きあたりほんのり明るんでくる。やが
て、小さな小さな葉っぱの赤ちゃん達が一直線に枝上に並ぶ。
 四月末になると葉柄の付根から真珠のような房かぶら下がり、日に日にぶっくりふくら
みをます。五月になると、柔らかな白い釣鐘状の花を咲かせる。木全体をたくさんの小さ
なイヤリングで飾っている。昔はこの花に蜂が群がり羽音が聞こえるほどだった。蜂がい
なくなったねと話していた三年ほど前、エゴの花時に庭に出ると、一匹の蜂が必ずやって
来て身の回りを飛び回った。家にひっこむと蜂もいなくなった。まるで番兵蜂だ。夫は家
を出たり入ったりして蜂をからかって笑っていた。その夫も亡くなり、去年も今年も番兵
蜂もみかけなかった。
 年々歳々、エゴの木は芽ぶき花をつけ実を結び葉を落とし、一年の巡りを繰り返し少し
ずつ大きくなってゆく。私は年々歳々老いて静かにエゴの木を眺めている。





  楠の木

 五月、公園の楠、街路樹の楠は若葉が照り輝き、もくもくむくむく元気いっぱいだ。
 “楠の青葉を吹きならし……”(佐高校歌)
 “楠若葉萌えて親葉は散り急ぐ”(樋渡エイ詠)
 近所の楠を見るとすぐこの二つが思い浮かぶ。明るく上機嫌でまだまだ大きくなるぞと
いう楠だ。
 今年の春三月、長男一家と父祖の地・尾道で墓参りをした後、しまなみ海道のあちこち
を訪ねた。大三島の大山祇神社の大楠はずいぶん様子がちかっていた。社殿前の大楠は天
然記念物に指定され、しめ縄がかけられていた。根回り二〇メートルという太さもさるこ
とながら、その形状のすごさに圧倒された。うねり合いからみ合って盛り上がり、強大な
力を感じさせ畏敬の念が湧いてきた。
 社殿に向かう道の左側に柵で囲まれた楠があった。こちらは雷に打たれて幹半端になり
枯れている部分も多かった。空洞になったところから枝が何本も伸び、緑の葉が繁り風に
吹かれていた。生と死が鮮やかな楠だった。


大山祇神社の大楠




  橅の木

 富士五湖の山中湖の周辺には橅の木が多い。別荘管理会社の企画で橅の大樹巡りツアー
が催される。
 私は山荘近くの二本の橅を「私の木」にして、行くたびに会いにゆく。
 一本は山荘を出て右へ二〇〇メートルほどのところにある。道のすぐそばに立っている
ので幹に手をあてて挨拶をする。なめらかで灰色の樹皮は暖かく気持がよい。見上げると
空にむかって伸び伸びと枝を広げている。
 ある春の日、根元のちょっとした窪みにピンクの小さな董が一輪咲いていた。次の年は
もうどこにもみつからなかった。ふっと舞い降りたような董たった。
 もう一本の橅は山荘を出て左へ角を曲がった空地に、富士山を背景に堂々と立っている
大樹だ。これをみると気持が晴ればれとする。
いつまでもいつまでも、ただそこに存在してほしい二本の大きな橅の木だ。





  菩提樹

 ヨーロでハの国々を旅すると菩提樹の大木をよく目にする。シューベルトの“冬の旅”
にも“菩提樹”の1曲がある。
 私は一九九八年秋にブルガリアのソフィアに滞在していた。そこで今でも忘れられない
菩提樹に出会った。借りたアパートの窓いっぱいに大きな菩提樹が枝を広げていた。
秋が深まるにつれ、樹全体が真黄色になり秋の陽に金色に輝いていた。強い秋の風が吹く
と、たくさんの黄色い蝶が空高く舞うように散っていった。
雨に打たれ落葉してゆき、十一月末には樹に一葉もなく太い幹と枝だけになっていた。
胸に沁みる菩提樹の秋の姿だった。
 菩提樹は春には香りのよい淡黄色の花をつけるという。町中にその香りが漂うという。
春のブルガリアを訪ねたいね、と話していた夫はもういない。
 心の中の私の菩提樹だ。

プロブディフの菩提樹



  オリーブの木

 オリーブは地中海沿岸の国々と切り離せない木だ。横にどっしりと広がりごつごつした
こぶのある太いオリーブをみると、木の老爺だと思う。ロードス島のリンドスやトルコの
エフェソスで遺跡のそばに広がるオリーブ畑を眺めると、ある感興を呼びおこす。風に吹
かれて銀灰色の葉裏がひるがえると、銀の波のようだ。銀波の上を幾つもの民族の興亡や
文化が渡ってゆく。


エフェソスのオリーブ畑

(斜光21号 2016 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

※写眞アレンジ  α編集部

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突然の別れ

 投稿者:編集部  投稿日:2015年10月18日(日)09時15分51秒
編集済
  .

     突然の別れ -もういない、逝ってしまった-


 クリスマスが過ぎ、十二月二十六日は師走にしては穏やかな暖かい陽ざしの朝だった。
絶好なゴルフ練習日だと、夫は嬉しそうに出かける支度を始めた。京王線の八幡山近くの
練習場へ行くと言う。「暖かいといっても冬なのだから、歩いていける所にしとけば」と
いう私の言も「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と聞き流して出かけていった。私も用事で
外出し午後三時頃帰宅すると夫も帰っていて、「今日はゴルフ練習したけど歩数は八千歩
だからもうちょっと散歩してくるよ。何かいるものがあったら買ってきてあげるよ」と言
う。「じやあ、トイレペーパーお願い」と頼むと「ああ、わかった」と出かけていった。
一時間足らずで帰ってきた。
 その後、夫は居間でパソコンにむかって何やかや、私は台所で夕食の支度に忙しかった。
 夕刻七時頃、準備が整ったので「ご飯ですよ」と声をかけたがなかなか席につかない。
クラムチャウダーが冷めてしまうのにと再度呼びかけると食卓についたが食べ始めない。
すぐ立ち上がって居間へ行く。「どうかしたの」と聞いても返事をしない。同席していた
娘と顔を見合わせ、どうしたのだろを見るとどうもおかしい。リクライニングチェアーに
座らせ「お父さん、気分が悪いの」と問いかけても返事がない。どうも尋常ではないので
かかりつけ医に電話すると、すぐ救急車を呼びなさいと言う。
 それから無我夢中の日々が始まった。

 駒沢の東京医療センター救急救命センターでの診断は、脳左側に1〇〇ミリリットル
の出血できわめて重篤な状態だった。地図のように広がる出血のCT画面を見せられて言
葉もなかった。
 それから五日問の懸命の治療も及ばず、意識が戻ることなく、十二月三十一日午後十一
時五十五分、夫はこの世から旅立っていった。十一月に七十九歳になったばかりだった。

 新年早々の葬儀はとても大変だった。葬祭場も正月三が日は休みなので四日に通夜、五
日に告別式をすることになった。三日間は家で過ごし家族や親族、近所の知人ともゆっく
りお別れができた。七歳の孫がバレエ風のお別れの挨拶をした時は本当に悲しかった。十
二月二十一日の発表会では、水色のチュチュ姿の彼女にともに拍手を送ったのに……。
 突然の逝去だったので、元旦早々、多くの方々を驚かせてしまったが、通夜も告別式も
穏やかな冬の日で、たくさんの方の見送りをいただけた。葬祭場へ向かう車の中から目に
入る新宿の町は冬の陽ざしがあふれ、道行く人々は新年の装いなのにどこか実体のない影
絵のようだった。
 お骨と位牌と遺影を持って帰宅する甲州街道の西方に、真っ赤な夕陽がまさに沈もうと
していた。


 “出棺のご挨拶” 一月五日告別式

 遺族を代表いたしまして、ひとことご挨拶を申し上げます。
 年明け早々の葬儀にもかかわらず、ご会葬のうえ最後のお見送りをいただきほんとうに
ありがとうございます。おとそ気分を吹き飛ばし新年のいろいろのご予定を無にしてたい
へん心苦しく思っています。
 夫、博田忠邦は自ら「努力と忍耐の人」と称しておりました。仕事に、七十三歳での博
士号の取得に、趣味に、家庭生活にと一生懸命でした。もう少しのんびりやったらという
と、のんびりの意味がわからないと言います。今日は寒いからゴルフやめたらと言っても
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。もう遅いから寝たらと言っても「だいじょうぶ、だい
じょうぶ」。私は「そのだいじょうぶだいじょうぶがだいじょうぶでない」と言い返して
いました。
 十二月二十六日も午前中はゴルフ練習場にでかけていました。夕刻、様子がおかしくな
り救急車で病院に運ばれた時にはかなりの脳内出血でした。意識が戻らぬまま、大晦日深
夜にこの世を去りました。大晦日に突然あわただしく逝ってしまうなんて、どこか我が道
路線だった夫忠邦らしいのですが、本人もお騒がせして申し訳ないと思っていることでし
ょう。大きな支えを突然失って深い穴に投げ込まれた残された者達に今度は「だいじょう
ぶだよ。だいじょうぶだよ」と言ってほしいです。
 新年早々にもかかわらず本日の告別式を行なうことができたのも、ひとえに皆さまの暖
かいお力添えがあったからです。どのようにお礼申し上げればいいのかわかりません。ほ
んとうにありがとうございました。
 夫、博田忠邦の生前中は数々のご厚誼にあずかり深く感謝しております。
 今後とも皆さまのお力添えをいただきながら遺族一同力をあわせてすごしてゆこうと願
っております。
 本日はお寒い中ほんとうにありがとうございました。


 あれから五ヶ月、季節は冬から春へそして初夏へと移り変わり、今年はとりわけその移
ろいが心に染みる。夫が好きだった椿やクリスマスローズが次々に咲いても、桜の季節に
なっても、山中湖から持って来た野あやめが咲いても、共に楽しむひとがそばに居ない。
もう居ない、どこにも居ないという思いだけが募ってくる。
 五月初め、経堂駅前のバス停でバスを待っていた。目の前の街路樹は新緑に萌え明るい
清明な陽光があふれ、人々が行きかっていた。ふいに、これまでになく強烈にどこにいっ
てしまったのだろう、もう再び会うことはないのだという思いがあふれてきて涙がとまら
なかった。
 先週、八王子の上川霊園の墓所に納骨をすませた。ほっとした反面、家中がカランとし
てしまった。寂しさは月を見て花を見てでなく、ちょっとした日常の中に強く感じる。夏
の衣類を出そうと引き出しを開けると、去年の秋にしまった時にはこんなことになるなん
て思いもしなかった、着る人がいなくなるなんて考えもしなかったか、どうなったのだろ
うと思うだけで涙が湧いてくる。「今日は暑いね」と言っても「矢車草が咲いたよ」と言
っても「そうだね、きれいだね」と答える人が居ない。
 以前、“斜光”に高柳増男さんの追悼文(←*リンク 編集部)を書き、最後を「いなくても居
る、見えなくても見えていると皆知っている」と結んだ。永年(四十八年)いつもそばに
いた夫が突然逝ってしまった今では、何て考えが甘く無知だったかと思い知らされている。
いないものは居ない、見えないものは見えないという思いだけがこみ上げてくる。
 夫の突然の死は、計り知れない喪失感をもたらした。しかし、このごろになってその底
から生まれた別の気持を感じることがある。独りでいることと寂しさは今後いつも私に寄
り添っているだろう。これはこれまでに感じることのなかった感情を見出すきっかけにな
るだろう。夫の死去で人の情け優しさ有難さが身に染みた。七十九歳でなくなった夫が七
十三歳の私に残してくれたいちばんの贈物はこの独りでいることと、寂しさを感じる心で
はないかとすら思えることがある。先々、何かあるかわからない人の世だが、友人からの
言葉「善く生きる。生を昧わってその時その時を生きる」を心の支えに日々を過してゆこ
うと思う。
 日々の生活はとても簡素になった。女は強しというが、細々とした家事が日常を保つの
に役立っているのだろう。夫が残った場合を想像するとゾッとする。私が先に逝ったら二
年ももたないよと夫もよく言っていた。
 “斜光”の皆さま、夫婦お互いにいたわりあって長持ちされますようにと祈っています。
                              (二○一五年五月末)


       
         生前の夫と私(2012 イタリア・コモ湖にて)

斜光20号 2015

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実演販売

 投稿者:編集部  投稿日:2015年 3月20日(金)13時16分30秒
編集済
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  テレビショッピングの「わーっ!おおーっ!」や、ネットの「評価No.1!」に
  騙されてつい買ってしまう人がいますが、なんと言ってもデパートの実演販売の
  臨場感にはかないません。実演販売に魅せられてつい買ってしまう著者。
  購入品には大方期待を裏切られるのですが…。 (編集部)





              実演販売




 実演販売、私はこれも好きだ。好きというよりこれに弱いといったらいいのか。デパー
トの家庭用品売場で「見て、ほら見て。こんなにきれいに……」という独特の口調を耳に
すると、ついそちらにフラフラと近寄って行きたくなる。
 実演販売の周りというのは不思議なもので、一人がちょっと足を止めると、今までどこ
に居たのかと思うほどたちまち十数人の輪ができる。手持ち無沙汰げだった実演者の口調
は一段となめらかになり、手は鮮やかに舞い踊り、万能野菜調理器からはみじん切りや千
切りや薄切りが生みだされてゆく。こげついた鍋やフライパンが万能たわしでみるみるピ
カピカ輝き出す。
 口上演技のあまりのすばらしさにうっとり聞き惚れ見惚れていると、演じるほうも攻略
の糸口ここにありとピンとくるのか、「そこの奥さん奥さん、あんまりよくできるのでび
っくりしたでしょう?でもこんなことでびっくりしててはだめよ。もっとすごいんだから」
と話しかけてくる。目が合うとつい笑ってしまったりする。こうなればもう相手の思う壷、
後は財布を開けるだけ。これまた不思議で、一人が買うと次々に買う。
 不思議の三つめは、このすばらしい道具も、家に帰ってみれば威力を発揮しない。デパ
ートのものと同じとは思えない。行き先は引き出しや棚の隅だ。そしていつもの包丁とボ
ロ布の再登場だ。
 しかし、梅雨時や歳末のデパートであの口上が聞こえてくると、以前の反省はどこかへ
飛んでいってしまう。あんなに短時間に部屋中さっぱりきれいにできるクロスがあればい
いなあ、あんな華麗な飾り切りが重箱に入っていたらどんなにすばらしいだろうと思って
しまう。

 先頃、日経新聞夕刊の「世に売れぬ物なし」というコラムで、実演販売歴四十年、マー
フィー岡田(六十一歳)がとりあげられていた。それでわかった。実演販売で売っている
のは品物ではないのだ。演技なのだ。実演販売者というのは、客の心理を研究し、売る品
物との距離を測り、自分の立つ位置を決め、日々体調を整え、防水加工を施した台所で弟
子とともに稽古に励み、デパートの家庭用品売場という舞台に登場してくる演技者なのだ。
マーフィー岡田も言っている。「目の前の客と真剣勝負したい」と。
 彼の手の中にある品と私の手の中にある品は同じだ。魔法使いが何年も修行して石を金
にかえるように、マーフィー岡田は長年修練を積み重ね、万能野菜調理器や万能スポンジ
だのを使ってお客に魔法をかけているのだ。お客が自分でもすぐにあのようにできると思
わせる魔法を。だから家へ持って帰ったらその魔法はとけてしまうのだ。その品が台所雑
貨でせいぜい二、三千円というのが何となくおかしく、そして切ない。巻き寿司セッ卜一
つで四十年通した猛者もいるとか。そうとう強力な魔法使いだ。
 このごろデパートから足が遠のいている。
 「欲しがりません、見るまでは」の昨今だ。

斜光10号 2005 「近頃のあれやこれや」シリーズより

         

365

 

今年の春

 投稿者:編集部  投稿日:2014年12月15日(月)19時57分13秒
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              今年の春




   震災からもう丸三年がたつ。当たり前の日常を、いつもいっしょに居る自分
   の家族を、当たり前に暮らす家を、或る日突然ごっそりと波に呑まれて奪わ
   れる感覚は直接体験した人にしかわからない。テレビ画面を通して今そこで
   起きていることを見てもだ。
   それでも普段気づかなかった「当たり前」のありがたさ。人の弱さ、はかな
   さ、人の強さ、暖かさ。日本人あるいは民族の特徴。ニュースを見た多くの
   人がそれぞれに何かを感じ取ったはずだ。そんな著者の震災後の心の動きが
   よく伝わってくる。そして著者もまた日本人なのだと感じさせられる。(編集部)




 今年の春は特別の春だった。
 三月十一日午後二時四十六分、宮城沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が
おきた。地震が引き金となって巨大津波が東北地方の太平洋沿岸を襲った。
 東日本大震災だ。
 未曾有の、甚大な、壊滅的なという言葉でも足りないほどの破壊をもたらし、世の中を、
人の心をすっかり変えてしまった。
 三月十一日、私は午後二時半頃帰宅した。一服しようと冷たい飲み物を手にテレビをつ
けると、緊急地震速報と共に「宮城県沖で地震」のテロップ、それと同時に部屋がカタカ
タ揺れ出した。かなり大きい地震だと思った。すぐおさまると思っていたが揺れは激しく
なっていった。テレビや壁の飾鏡がガタガタ揺れ、積みあげてあった本や書類が床になだ
れ落ち、台所では棚から瓶が落ちて割れる音がした。壁につかまってただただ揺れがおさ
まるのを待つしかなかった。横揺れが激しく本当に恐しかった。実際には数分だと思うが、
とてもながく感じられた。

 テレビでは、東北太平洋沿岸の町や村が大津波に飲み込まれ破壊され押し流されていく
有様を映しだしている。巨大な黒い生き物のような津波が田や畑、タンクや建物や車を次
々と飲み込み堤防をこえて進んでゆく。現実におきているとは思えないようなすさまじい
光景だった。一晩中、広がり続ける惨状を伝えていた。
 東京でも余震がたびたびあり、交通は全て止まり、電話も夜遅くまで不通だった。道路
は大渋滞、歩道は徒歩で帰宅する人波がどこまでも続いていた。
 翌朝、体が揺れているような感覚が残るぼうっとした状態で家の外に出て見ると、何事
もなかったように明るい穏やかな春の陽が満ち、静かな家並が立ち並んでいた。この光景
だって一瞬のうちに崩れ去ることがあるのだ。ふいに涙がこぼれそうになった。

 今年の三月はいつまでも寒かった。風の強い日も多かった。それでも桜は咲き草は芽吹
く。私は今年の桜を哀しく、しみじみとした思いでながめた。被災地に広がる惨状のなか
にかろうじて咲いている一本の桜、芽吹きかけた一本の白樺の木を映像の中で見た時、被
災地の方々にほんのわずかでも安らぎを与えてくれることを願わずにはいられなかった。

 震災後、しばらくは重苦しく沈んだ気分で遠出する気持になれないでいたが、五月十日
に一泊で唐津に行った。古希の祝いに唐津城の藤を見に行こうと妹が招待してくれていた。
十日はあいにくの雨で藤は濡れそぼち、私達もびしょ濡れになってしまったが、「これも
思い出の藤見だね」と笑い合つた。唐津シーサイドホテルの「松風」で夕食をとった。外
は今までに経験したことのない海の景色だった。霧雨で島影がさっと見え隠れする。右手
の浮岳や姫島や糸崎半島が墨絵の濃淡の様に重なっている。この二ヵ月ほど続いたざわざ
わとした気持ちを静かに落ち着かせてくれる風景だった。東北の沿岸にも白砂松原の浜が
あちこちにあっただろう。陸前高田では七万本の松が津波に飲まれたった一本だけが残っ
た。ひとは苦しい時、自然の中に、特に故郷の自然の中に慰めを見つけようとする。でも
自然は計り知れない恐ろしさをひめている。全てを奪っていった海とともにくらす被災地
の人々の心情はいかばかりであろうか。
 被災の大混乱の中でも、今春も鮭の稚魚の放流を気仙沼で行ったというニュースをみた。
鮭は四、五年後に生まれた川に帰ってくる。放流を実施した方々は「この鮭たちが帰って
来るとき、復興した気仙沼で迎えたい」と語っていた。

 東日本大震災は、東北地方とそこに住む人々のことを図ずも教えてくれた。日々の生活
が東北地方にこんなに頼って成り立っていることを初めて知った。被災地の人々の態度に
も心を打たれた。「忍耐」「節度」「気丈」「健気」という言葉を久しぶりに思いだした。
右往左往する政治家達よりもよっぽど立派な顔と態度の人々だ。

 千年に一回という巨大地震津波に、東京電力福島第一原子力発電所の大事故が加わって
深刻な不安と脅威が広がつている。世の中が一気に暗くなった。日々の生活がいかに脆い
もののうえに成り立っているかを思い知らされた。
 昨日と同じ生活を続けてゆけることがどんなに有り難いとかを心にとめて日々を過して
ゆこう。

(斜光16号 2011 「近頃のあれやこれや」シリーズより)


       
       岩手県陸前「高田松原」に残った奇蹟の一本 (編集部)

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いつでん帰つてこんね

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 7月10日(木)18時02分33秒
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          いつでん帰つてこんね  
           ―― かの山 かの海 かの友垣 ―― 




   疲れた体と心を癒やしに向かうのは、かつて父親が生まれ育った土地、多感だ
   った自分が過ごした土地。そこに著者の足が向くのはきっといい思い出がたく
   さん詰まっているからなのでしょう。 唐津の地を絵と歌で綴った父親の姿と
   父親の年に近づいてきた娘(著者)の姿がぴったり重なります。
   小さな旅 -唐津-(斜光10号)をもう一度読み返しました。(編集部)






 去年は五月末に夫が入院し、十月末には義母が九十五歳でなくなり、葬儀納骨香典返し
諸々の手続きが終った十二月なかばには、ほっとした反面とても疲れてしまった。「どこ
か温泉でも行きたいなあ」と溜息をついていたら、夫が「マイレージポイントが貯まって
いるからどこへでも行ってきたら」と言ってくれた。十二月二十二日から二泊三日で佐賀
と唐津へ行くことにした。日本全国どこでもよかったのだが、どうしてそこへ心が動いた
のだろう。気持の疲れた時は新しい土地よりも、知っている場所や思い出のある所を選ぶ
のだろうか。
 佐賀に着いたのは冬至の日の夕方たった。ニューオータニの六階の部屋は北向きで、窓
からまさに沈む陽が望めた。筑紫平野をとりまく山々が西から東までぐるりとシルエット
に浮かび、空は夕焼けに染まっていた。冬至が巡ってくるたびに思い出すだろうみごとな
入日だった。
 佐賀へ行った時は時間の許す限り高木町の牟田さん宅に寄っている。五、六人の旧友も
集まって手作りの料理の数々で歓待してくれる。素材がいいうえに皆料理上手だからどれ
もとてもおいしい。次から次へとでてくる。米の水がはいると牟田さんの母上の艶のある
声と手拍子と笑顔が加わり「佐賀はヨカナイ、ヨカトコロ」や「オリキバアさん」を皆で
歌って盛り上がる。昔の思い出話や誰彼の噂話の花が咲く。
 この日も楽しいひとときだった。

 翌朝は寒かった。お堀端を散歩しているとさあっと俄雨が降ったと思うと、また陽が差
してくるといった空模様だった。記憶の中の佐賀と現在の佐賀がいちばん違うのは、昔は
暗かった所が明るく広々と整備され、賑わっていた所が薄暗く寂れていることだ。
 県庁前の堀端の楠の大樹はいつも変わらず、どっしりとした姿でむかえてくれる。これ
からもずっとここにいて若葉を照り輝かせているだろう。太い幹に手を当てると何か大き
な力が伝わってきて気持ちが落ち着く。

 佐賀から電車で唐津に向かった。このルートで唐津へ向かうのは何十年振りのことだろ
う。半世紀振りじゃないだろうか。久保田、多久、相知と懐かしい地名が通り過ぎてゆく。
唐津へ近づくにつれ電車は松浦川沿いに走り、鬼塚はゆったりとした河口の畔りの駅なの
だが、このことの記憶はなかった。
 唐津の海は、鳥島高島大島の島影を浮かべいつも穏やかだ。
 福岡から来てくれた裕子(江口)さんと、シーサイドホテルのカフェで話がつきなかっ
た。寄せては返す波、波打際を散歩する人や犬、舞い降りたり飛び立ったりする鳥を眺め
ながら語り合った。昔、佐賀城門の石垣の階段の上で西へ落ちてゆく夕陽をみながら、い
ろいろと語り合ったものだ。あれからもう五十年以上の時が過ぎてしまった。外は暗さを
増し海上には点々と明かりがみえだした。裕子さんは姉上の急な入院のため泊まらずに福
岡へ帰って行った。
 翌日、私は唐津城へ上り、市内を散策して帰京した。
 良い三日間だった。

 「どこか遠くへ行きたい」と思うとき、人はどこへ向かうのだろう。知らない街を歩い
てみたい。知らない海をながめてみたい″(永六輔作詞・中村八大作曲)と歌つたのはデ
ューク・エイセスだが、この気持は元気な時のものではないだろうか。私が佐賀と唐津を
訪ねてみようと思いたったのは別の心の動きだった。「かの山、かの海、かの友垣」の中
へ帰って、心身の疲れを癒したいと願ったのだろう。

 私は神戸で生まれたが、父が公務員だったことと戦中戦後の混乱期ということもあって
転勤が多かった。神戸の後、広島、高松、高知、広島、横浜、水戸と移り、小五の二学期
から高校卒業まで七年半を佐賀で過ごした。学生時代は時折帰省していたが、両親も東京
に移り住むようになってからは佐賀とは縁がきれてしまった。これまでの六十八年間の人
生の中で八年足らずはさして永くない。しかし過ごしたのが十一歳から十八歳までという
中学高校時代だったので、自分がそこで成長するなかで経験した複雑な思いが詰まってい
る。"遠きにありて思うもの"という気持で永らく佐賀に目が向かなかった。
同窓会にもほとんど顔を出さなかった。昔を懐かしがるのがむしろ嫌たった。
 ところが平成十五年に父が亡くなり、翌年の六月に父の生まれ故郷であり中学卒業まで
過ごした唐津を訪ねて以来、気持に変化が生じた。佐賀に住んでいた頃、父の兄姉も健在
だったので唐津には夏の思い出もあった。父が愛し絵に画き歌をよんだ唐津の風景をみた
時、懐かしい思いが忽然と湧き起ってきた。
 風景が語りかけてくれるようだった。
 それ以来、毎年機会をみつけては唐津と佐賀と博多を訪ねている。そのたびに思いがけ
ない出会い、忘れ難い出来事が積みかさなってゆく。

 最近、私が唐津や佐賀を話題にするので、永らく(四十五年以上も)ご無沙汰だった三
人の妹達も行ってみようかという気になった。話はハタハタと決まり六月上旬に三泊四日
で行くことになった。今回は嬉野温泉まで付いている。
 十一月には五十周年の記念同窓会もある。年をとるということは失ってゆくものも多い
が、若い頃の拘りや囚われから解き放たれて気持が自由になるというすばらしさもある。
 「いつでん、ここにおるよ。いつでん、帰ってこんね」と呼びかけてくれる、かの山、
かの海、かの友垣を持つ喜びが心をみたしてくれる。

(斜光15号 2010 「近頃のあれやこれや」シリーズより)


93

 

オールドブラックジョー

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 7月 9日(水)09時24分47秒
編集済
  .

          オールドブラックジョー



   友遠方より来る。オールドブラックジョーを歌うマダム3人とムッシュー1人。
   半世紀前の景色が時の重さを加えて若い頃とは違った色合いで蘇ります。(編集部)





 二月末、裕子(江口)さんが仕事で上京して来た。数時間時間がとれるというので、久
美(小宮)さんと私達夫婦でランチを共にした。あれやこれやで話が弾んだ。近頃はどう
しても「老病死」の話題が多くなる。特に夫は私達より年長なので知人友人の死を経験す
ることが増えてきた。
 「オールドブラックジョーという歌知っているだろう。この歌を聞くと、このごろはつ
くづく身にしみて悲しくなるんだなあ」と言って、低い声で口ずさんだ。

    "若き日 はや夢と過ぎ わが友みな世を去りて あの世に楽しく眠り
     かすかに我を呼ぶ オールドブラックジョー
     我もゆかん 早や老いたれば かすかに我を呼ぶオールドブラックショー……"
                       (フォスター作曲 諸園涼子訳)

 私達三人の記憶は定かではないが「中学の時、英語の歌詞で習い、英語で歌えるという
のでもっと元気よく歌っていたよね。そんな悲しい歌とは思わなかったわね」と言いあっ
た。四人で低い低い声でこの歌を合唱した(周りのテーブルからのいぶかしげな視線を充
分意識しながら……)。確かに昔とは違う味わいがある。
 中学高校時代の友をなくすのはとても寂しい。あの友この友の顔が浮かぶ。
 久しぶりの会食は楽しかったが、どこかしんみりとした冬の午後のひとときだった。

(斜光15号 2010 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

87

 

富士の峰を仰ぎつつ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 7月 3日(木)11時41分51秒
  .

          富士の峰を仰ぎつつ  



   7月1日、山梨側ルートの山開きがありました。昨年世界[文化]遺産に選ばれた
   こともあり大いに賑わったそうです。そんなこととは関係無く富士の裾野で生活
   をして来た人、著者のように富士に魅せられて第二の安らぎの場所として通うよ
   うになった人がいます。小鳥用レストランを作ったりする著者はここでは農作業
   を通じて富士山麓の自然やここに住む人達との小さな関わりを楽しんでいるよう
   に見えます。[自然]遺産とするには問題があると言われた富士、観光客が押し掛
   けて静けさと自然が失われないといいのですが。(編集部)






 時は五月三日午後三時すぎ、場所は富士北麓山中湖花の都十坪農園。
 富士山は、今年はいつまでも寒かったせいで三合目付近まで雪におおわれている。しか
し真冬のような厳しさはなく、春の霞んだような空にどっしりぼんやりうかんでいる。花
の都公園のまわりは富士桜、れんぎょう、雪柳が満開。から松も真緑の新芽につつまれ行
儀よく並んでいる。休日の午後とあって、家族連れ友達連れ犬連れであたりは賑やか、空
ではひばりも夢中になって嚇っている。まさに、うらうらとして言うことなし。
 ここで何をしているかって? 半年振りに農園が再開したので土起しをしている。十坪
でも全面やるとなると。
 “六十五歳以上の高齢者”の老々作業ではけっこう大変だ。陽も西に傾き風も冷たくな
ってきたので、五時半すぎに作業をやめ、畝作りとマルチングは明日にして近くの「花庵」
で早めの夕食をとることにした。この店の富士山[ほうとう]は素朴でしみじみとおいしい。
ここではどっかりとした大きな富士山が窓からのぞきこんでいるようだ。陽は西の方、二
本の赤松の間に落ちてゆき、空は茜色からとき色に染まってゆく。
 健康上のことで農園を借りるのはもうやめようかという思いがあっただけに、再びこの
景色を眺めながら農作業が出来ることが心から嬉しかった。

 翌日、畑で働いていると思いがけない助っ人が現れた。 通りかかった母娘三人連れが
「御苦労さま!」と声をかけてきた。 夫が「お-い、手伝ってくれよ」と応じると、
「は-い」と元気な返事とともに二人やって来たのには驚いた。土の塊を砕いたりバーム
堆肥を混ぜたりしてくれた。二十分ほどすると様子を見に来た母親の姿が坂の上に現れた
ので、「バイバイ」と手を振りながら帰っていった。農園の左手の別荘へ来ている姉妹で
姉は高一のみやかさん、吹奏楽部でホルンを吹いている。 妹は小五のゆりあさん、日本
舞踊をやっている。「すてきな名前だけどちょっと変わっているわね」と言うと「キャバ
ケイみたいでしよ」と言う。「えっ、ヤバケイ??」「キャバクラ」。初対面の会話にこ
ういう単語がとび出す十代と、とっさに「耶馬渓」(やばけい)を連想する六十代の珍問
答。また会えるといいね。
 山中湖花の都十坪農園が開園したのは三年前の平成十九年四月。事業主体は株式会社山
中湖観光振興公社、山中湖村の後援や富士急リゾートアメニティの協力を得て、花の都公
園周りの休耕田の活用を考えて企画された。初年度は三十六区画、年々増えて今年は七十
二区画まで拡張された。
 私達の記念すべき作業初日は平成十九年四月二十九日だった。快晴で富士山はくっきり
西の遥かかなたには雪をいただく南アルプスの山並が望めた。
 山中湖の夏の風物はとうもろこしとオレンジ色の花豆の花。さっそく作ってみた。花豆
は高い支柱を組んでネットを張らなければならないので苦労したが、晩秋に長大な莢(さ
や)からふくらんだ花豆が出てきた時は嬉しかった。煮豆にしてお節料理の一品に加えら
れて大満足。とうもろこしは少し時期をずらして収穫しようと計画した十本ほどが、採る
直前にへし折られ、かじられ、全滅してしまった。犯人はカラスどもだった。どこもかし
こもとうもろこしがなっている時は目立たないものも、少なくなれば空の偵察者カラス達
の目を引かないわけがない。被害を受けて初めてわかるという呑気な始末だった。
 山中湖旭ヶ丘に山荘があるとはいえ、そう頻繁に来られないので作る物はかなり制約さ
れる。芋類、豆類、ピーマンとししとう、モロヘイヤ、ミント類を作った。トマトやきゅ
うりなどの夏野菜は遠隔地農園では無理だとあきらめていたが、なすの苗二十本をもらっ
たので植えてみたらとてもよくなった。博田の家の伝統料理に。"なすときゅうりとみょ
うがのごま酢合え″がある。新鮮で柔らかくおいしい一品が出来てこれも大満足だった。

     

 三年目(去年の五月初め)例年どおり畑作りをしてじゃがいもと里芋を植えつけた。と
ころが五月末に夫が急な病で入院。十月末には義母が九十五歳でなくなり、半年ほど山中
湖に行けなかった。農園は十一月末には整理していったん返却する規則なので、中頃久し
ぶりに行ってみると畑地は丈の高い枯草で茫々。五月に植えたじゃがいもは腐って全滅し
ていると思っていた。掘ってみると、出るわ出るわ、大小合わせて一二キロ採れた。じゃ
がいもの栽培は芽かきや土寄せをすると物の本に書いてあるが、何もしないほうがいいの
だろうか。収穫したじゃがいもは味もよかった。
 四年目の更新の通知が来た今年の二月、老いの身、いつまた何があるかわからないし体
力的にもきついので、畑はやめようと考えていた。しかし、いざ返却となると未練心が生
じた。富士の峰を仰ぎつつ農作業が出来るこの地はすばらしい。三年間の土作りの実績も
ある。何より植えっぱなしにしていても穫れたじゃがいもの力が大きかった。もう少し続
けようということになった。

 花の都公園は春の訪れとともに菜の花畑が広がり、五月には十五万本のチューリップが
咲きそろい、夏にはひまわり、百日草、秋にはコスモス畑が富士山を背景に広がる気持ち
の晴々とする所です。近くには湧水で有名な忍野(おしの)八海もあり、東京からは車で
二時間たらず、ぜひ立ち寄ってください。うちの農園は十三号です。

(斜光15号 2010 「近頃のあれやこれや」シリーズより)>



77

 

南の国見聞記・インドネシア (後編)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月26日(木)10時53分35秒
                                                .

      南の国見聞記・インドネシア (後編)






   バンドウンヘ

私達の世代はバンドゥンという地名を聞くと埋もれた記憶の中から何かが蘇ってくる。
ここは一九五五年四月に第一回アジアーアフリカ会議が開催された町だ。
 三月十九日、一泊の予定でバンドゥンへ行った。安全センター所員で日本生活十年の経
験があり、人柄も誠実なシャハルデンさんが同行してくれたので心強かった。
 空は晴れ渡り、東へ向かう高速道路の沿線は水田が広がりバナナや郷子が茂り、少し黒
ずんだオレンジ色の屋根瓦の集落が所々にかたまっている。私の頭の中にあるジャワ島の
田園風景そのものだ。最近は日系合弁企業はジャカルタ東郊に増えているそうで、ホンダ
ソニー、YKKなどの企業がある。高速道路を降りると地形は起伏に富んでくる。小高い
山の連なりが日本を思い出させる。斜面には広大な茶畑があり、パイナップル畑が続き、
ゴム園には幹がまっすぐな高い木がズラッと立ち並んでいる。日曜日とあって市場は店や
人や車やバイクで大混雑だ。山道にかかると雨が降り出してきた。三時間ほどで温泉公園
のあるチアトルに着いた。雨が激しく雷鳴も轟き山中の保養所に居る感じが強かった。
 バンドゥンへ向かう途中で、何とも不思議な光景をみた。道の両側に兎を売る店が何軒
も並んでいる。片手に乗るほどの小さいのから猫ほどの大きいものまで、色も白黒灰色茶
色などさまざまな兎が台の上でほとんど動かずにじっと固まっている。店番も退屈そうに
台の横にじっと座っていた。
 翌日は気持ちのよい新鮮な朝を迎えた。こちらに来てはじめてと思うくらいの快晴だっ
た。
 バンドゥンは西ジャワ州の州都で人口二百十四万人のインドネシア第四の都市だが、標
高七〇〇メートルの高原地帯にあり、空気もきれいで涼しく緑豊かな清々しい町だった。
再び訪ねることはないだろうがすっかり好きになった。
 アジア・アフリカ会議場は町の中心部にあり、建物は補修中で内部がガランとしていた。
第一回A・A会議が開かれた会議室には、会議の様子が人形で再現されている。若々しい
スカルノが演壇に立っている。インドネシアはオランダの植民地として三百年支配され、
日本の五年の占領と敗戦を経て、一九四五年八月十七日にスカルノによって独立宣言文が
読みあげられた。しかし、イギリスの進攻、オランダの再植民地化があり、永い苦難の闘
争の後に一九五〇年「共和国」として独立を果たした国だ。五年後の一九五五年四月にア
ジア・アフリカ二十九ヶ国の代表を集めて、第一回の会議を主催したスカルノの気概がひ
しひしと伝わってくる姿だった。
 当時の写真や資料の展示室では、ネール、周恩来、ホーチミン、ナセルに会うことがで
きる。第二次世界大戦が終わって十年目の一九五五年、ここに集った人々、それを見守っ
た世界中の人々が独立と自由の願いをここにどれほど託したことだろう。「バンドゥン平
和十原則」がかかげた理念と、その後のアジア・アフリカがたどった歴史の現実とのあま
りの隔絶には言葉もない。深い悲しみが湧き上がってくる。この会議に出席した人々は皆
逝ってしまった。
 しかし、バンドゥン会議は世界史の教科書にも載り、バンドゥンという名をどこか記憶
の片隅に留めていた人々が、機会を得てはるばると訪ねてくる。私達の他には二人しか見
学者がいなかったが、展示室の写真や新聞を熱心に見ていた。



  ジョグジャカルタとソロヘ

三月末の帰国を前に、ジョグジャカルタとソロはぜひ訪れたかった。 二泊したかったが
予約がとれず早朝出発の一泊旅行になった。一時間の飛行で降りたったのんびりとした空
港のゲートで待っていた小柄な女性がスロヤさんだった。インドネシアに詳しいバティッ
ク作家の知人推薦のガイドだけに、スロヤさんのおかげでこの旅行は実りのある楽しいも
のになった。彼女は七年間名古屋でくらし、帰国後も日本語の勉強をおこたらず、ガイド
の経験も豊富だった。私逮の欲張りな希望をきいて。「今日はソロ方面、明日ジョグジャ
とポロプドゥルヘ行くことにしましょう」と応じてくれた。
 ソロはジョグジャから北東へ卑で二時間ほどで行ける古都。十八世紀中頃に建てられた
マンクヌグラン王宮を訪ねた。噴水池のある芝生広場の向こうのゆったりとした屋根を頂
いた開放的な大理石造りの広間では、ガムラン演奏やジャワ舞踏が演じられる。陽ざしの
強い日だったが、吹き抜けてゆく風が心持よく、靴を脱いで上ると大理石の床はひやりと
して気持ちよかった。この王宮には王族が暮らす一隅があるとのことでどことなく人気を
感じるが、維持管理も大変らしく南国の陽の下に明かるい黄昏を漂わせていた。
 「ブンガワン・ソロ」に唱われたソロ川を見たいというと、こちらの人は皆「なんで」
という頗をする。「ただの川ですよ」と強調する人もいる。中高年日本人の性向を知るス
ロヤさんが笑いながら案内してくれた。最近の氾濫で岸には木の枝やゴミが打ち上げられ
地面はヌルヌルと滑りやすかった。対岸の釣り人に呼びかけたら届くほどの川幅で、茶褐
色の濁った水がかなりの早さで流れていた。たしかにただの川だったが、インドネシアに
行ったらソロ川を見たいと思っていた私達は満足した。ホテルのバンドやピアノやギター
弾きは日本人とみるとこの曲を演奏してくれる。 この曲の作詞作曲のグアン・マルトハル
トノさんは九十三才の高齢で病身だが、現在もソロに住んでおられる。
 ソロから一八キロ北にあるサンギランは化石の宝庫と知られ、ジャワ原人の化石もこの
地で発掘された。サンギラン博物館には頭骨のレプリカや象の牙や水牛の大きな角が展示
され、ジャワ原人親子三人の生活の有様が再現されていた。ジャワ原人の男は大柄で身畏
一七〇センチ、体重九〇キロもあったという。その体型は確かに誰かの祖先に違いないと
思わせるものだった。
 午後三時を過ぎ、サンギランへの途中から降り始めた雨は、着いたとたんに一段と激し
くなり。車から入口までの石畳の坂道を流れ下っていた。雷鳴も轟き恐いくらいだった。
停電しているのか、もともと照明が少ないのか、館内も薄暗くて展示もよく見えなかった
が、それがかえって印象深かった。遥かに遥かに遠い昔、この原人の家族はこういう自然
の中で、どういう思いで生きていたのだろうという深い感慨が心の底から湧き上がり、目
の前の風に吹き荒れる樹々、雨に打たれる緑の野をただじっと眺めていた。

       ボロブドゥル遺跡にて。真中がスロヤさん
       

 たった一日の滞在だったけれど、私はジョグジャカルがとても好きになった。自然と文
化と人々の生活が溶け合って心持よさを与えてくれる。
 王宮はソロのひなびた王宮より豪華で観光客や遠足の学生や生徒達で賑わっていた。私
には王宮囲りのゴタゴタ並んだ土産屋や、チョコチョコ走りまわるベチャや人々の喧噪の
ほうがおもしろかった。王宮の中で最も印象に残ったのは王宮に仕える年配の婦人達や衛
士達だった。ジャワ人らしく小柄で細身で姿勢がいい。伝統衣装に身をつつみ、婦人達は
髪をきりりと結上げ、衛士達は布で頭をきちんと包んでいる。後腰に短剣を差し、あぐら
を組み膝に手を置き、浅黒く彫りの深い顔立ちの衛士達が端然と座っているあたりは空気
もピリリと引き締まっているようだ。
 その王宮から一歩外に出ると、隣の原っぱでは数頭の山羊が草を食んでいた。
 ボロブドゥル遺跡に関しては、私にはほとんど何も語れない。インドネシアへ行くまで
どこにあるのかも知らず、ブロバドゥルなんて発音していたのだから…。夫は出張の際に
三回も行ったことがあると言うので、バティックエ房のほうに関心がある私は、「時間が
なかったら、密林の中にあるごてごてした遺跡なんて、わざわざ見に行かなくてもいいわ
よ」と言っていた。本当に無知は恐ろしい。ボロブドゥル遺跡を見なかったら、私の今回
のンドネシア・パズルの何枚かが確実に欠けていたことだろう。何がそうまで感じさせる
のか私にははっきりと表現する力がない。
 ボロブドゥルはジョグジャカルタから北東へ四〇キロ、車で一時間ほどかかる。同じ幹
線道路の往復ではつまらないだろうという、スロヤさんの有難い配慮で行きは地方道を使
った。遺跡に近づくのにこのアプローチがとてもよかった。日本の五月のように天気は爽
やか、樹々は緑に照り映え、中部ジャワの典型的な田園地帯の小さな町や村を抜けて車は
走る。このあたりは三毛作ができるので、あるところでは水面が光り、その隣では青々と
した稲が風に揺れている。菅笠を被りバティックの腰布姿の五、六人が腰をかがめて田植
えの真最中。稲刈りに励んでいる人もみえる。水牛は田で働き、鶏は道端で地面をついば
み、犬は材木の上で昼寝中。
 やがて車は登りにかかり、繁る郷子林の遠く向こうに遺跡の尖塔群(ストゥーパ)が目
に入ってきた。濃緑の樹海の中にどっしりとした灰色の塊りが姿を現していた。何とも言
いようのないほど心を動かされた。
 頂上から見ると、広大な遺跡は妙義山を思わせる尖った峰々の山に囲まれた広大な樹海
の中にあった。この世界最古にして最大といわれる石造仏教遺跡は千年も密林に埋もれて
いたという。私はただその存在に圧倒されてしまった。
 帰路、それまで雲に隠れていたムラピ山が、稲田の野のはるか遠くに姿をみせた。薄青
色の空を背景に山頂にはかすかに白煙がたなびき、私の中部ジャワの旅の最後のページを
飾ってくれているようだった。

       中部ジャワの田園風景。後方がムラピ山(現地で入手した絵ハガキより)
       

 三月末に帰国した後、「インドネシアはどうだった?楽しかった?」と聞かれた。あま
りにも漠然としたお尋ねなので答えるのは難しいのだが「ニヶ月という限られた期間だっ
たけど行ってよかった」というのが私の実感だ。「百聞は一見に如かず」は言い古された
格言だが、映像社会の現代では画面上で何でも見られるようになった。
「百聞は一験に如かず」に改めたらというのが私の説だ。
インドネシアで見たこと聞いたこと、味わった物、出会った人々がインドネシアの実感を
私に与えてくれ、物事を多面的にみる視点をひろげてくれた。
 日本の企業が海外に進出する際には、まず二つのこと「時間励行」と「整理整頓」を現
地従業員に根付かせることが最も大事で最も難しいと聞いたことがある。私の限られた時
間と範囲の見聞からも頷ける。
 インドネシアには「ジャム・カレット」という言葉がある。ジャムは時間、カレッ卜は
ゴムという意味で「ゴムの時間」。つまりゴムのように時間がグーンと伸びる。
 ジャカルタに来て初めての日曜日、市内観光のためにホテルロビーで午前十時に待ち合
わせた時のこと。十分前にロビーへ行ったのは私達二人、十時十五分に案内役のプティさ
ん到着、車と運転手は待てど暮せど現れない。結局、一時間ほど過ぎたころ登場。言い訳
するでもなく詫びるでもなく悠然としている。なるほど、これがゴム時間かと感心してし
まった。一方、日本人のように時間に正確な人種の方が珍しいという説もきく。
 “斜光”の原稿締切日に関して、私の時間感覚は「ジャム・カレット」、期日をグーン
と延ばしてインドネシア式。 言い訳を考えたり謝ったりするのは日本式。まだまだ話題
(イスラム、食物、言葉、気候、バティック)はあるのだが、これ以上投稿を延ばすとぷ
つんと切れて失格してしまうので、「南の国の見聞記」はこれにてひとまず、終わ-り終
わ-り。

(斜光13号 2008 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

72

 

南の国見聞記・インドネシア (前編)

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月22日(日)12時06分47秒
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      南の国見聞記・インドネシア (前編)




    夫の仕事でアジアの国インドネシアにいっしょ行ったときの見聞録です。
    同じようにして海外には何度か行かれているようですが、決して背伸び
    をせず、気負いもなく、高見でもなく、そして優しい目でその土地土地
    の景色や生活する人々の様子が描かれています。(編集部)




ジャカルタの日々

 今年の二月。三月をジャカルタで過ごした。暑さと蚊に弱く、東南アジアの国への旅行
すら考えたことがなかった。その私がざる日突然“インドネシア”となったのは、原子力
安全国際交流事業のアジア版で、夫が滞在することになったからだ。十年前にブルガリア
で同じ事業が実施された。延ベー年半におよぷ彼地での体験は忘れ難く貴璽なものだった。
暑かろうと蚊がいようと未知の国で暮らせるならと私も同行することにした。
 私のインドネシアに関する知識たるやまことにおそまつだった。思いつくのは三年前の
スマトラ沖大津波、東ティモールの争乱、スマトラ島のオラウータン、熱帯雨林の減少、
パプアニューギニアで現代文明から隔絶して生活ずる部族、鳥インフルエンザの流行など
新聞テレビで報道する大事件か「世界ふしぎ発見」ふうな事柄だった。癒しの麗しの島と
喧伝されるパリ島がインドネシアの島だということさえ知らなかった。ただ、ジャワ更紗
と呼ばれるバッティクッには興味をもち数年間習ったこともあるので、その故郷を訪ねら
れるという楽しみも後押ししてくれた。
 ブルガリア行きの時もそうだったが、派遣が決まってから出発までたいして時間がなか
った。『地球の歩き方インドネシア』と『0から学ぶインドネシア語』を手に入れてあわ
てて勉強したり、駐在経験者に話を聞きに行ったりした。今回は期間も二ヶ月だし、ジャ
カルタの社会状況を考慮してホテル住まいということになり、身軽く行くことになった。

 一月三十日成田を出発。機内では『インドネシア行き飛行機の中で読む、インドネシア
語とそこに住む人々の話』(橋 廣治著)という、信じられないほどグッドタイミングで
発売された有難い文庫本を読みながら過ごした。未知の国の空港へ降り立つ時は興奮と不
安が交錯する。しかも今回は東南アジアの国だ。
 さっそくトラブルに見舞われた。手荷物受取場のしつこいポーター達を何とか撃退して
到着ロビーに出たが、いるはずの出迎えの人物が見当たらないのだ。こんなことは初めて
だ。周りに人はいるのだが言葉が通じない。 こちらのインドネシア語は「こんにちは、
ありがとう」。むこうが話しかけてくる英語は「タクシー、ホテル」。そこへ携帯を片手
に、こざっぱりとした白いシャツの一見空港スタッフ風のイケメンさんが話しかけてきた。
英語が通じそうなので「出迎えが見つからない」と言うと、携帯を指し番号を教えてくれ
たら連絡をとってあげるというようなジェスチャーをする。
 ここで警報が点滅した。以前アムステルダムでパスポートを盗られた時に「誰であれ、
向こうから一メートル以内に近づいてくる人にはくれぐれも注意するように」と忠告され
た。どんなに親切そうに見えてもあぶない。無視して歩き出すと、話しかけながら付いて
くる。結局構内を十五分ほどウロウロしているうちに出迎えのカスマさんにばったり出会
えたのだが、彼も数人日本人らしき人物に話しかけたあげくだったという。
 この顛末はいったいなんだったのだろうか、今でもわからない。カスマさんが名札を持
って定刻にゲートで待っていれば何の問題もなかったのに……。その後のジャカルタの二
ヶ月を経験してみると、何か象徴的な入国第一歩であった。
二月は都心にあるホテルニッコージャカルタの八一七号室が住まいだ。旅に出ると、私は
ホテルの窓から外を眺めるのが大好きだ。風光明媚じやなくてもいっこうにかまわない。
むしろ異国の人々の日常の生活がかいま見えておもしろい。この部屋はジャカルタ都心部
を南北に貫く片側五車線のタムリン通りに面している。観察材料には事欠かない。ホテル
左側の噴水のあるロータリーをマンダリン・オリエンタル、グランド・インドネシアが囲ん
でいる。大通りの向側はグランドハイアットだ。その近くには日本大使館もある。中央分
離帯には南国の樹々が茂り花も咲いている。東京だったら快適なホテルライフが期待でき
るだろう。でもここはジャカルタ、そうはいかなかった。
 問題の第一は、道路交通事情だ。
 朝四時半頃、モスクのスピーカーから礼拝を呼びかける声が聞こえてきたと思うと、下
の大通りからは「グアーン」という地鳴りのような音が響きはじめる。町が鼓動を始めた
と書けば文学的だがそんな生易しいものではない。ロータリーの信号が青に変わったとた
んに一丸となって飛び出す車やバイクは大迫力だ。人口千百万人の首都ジャカルタはその
ほとんどの交通を車(バスを含めて)に頼っているから、いたるところに車がひしめきあ
っている。タムリン通りなどの主要道路の渋滞を緩和するため、道路中央に専用バスレー
ンを設けて大型のエアコンパスを走らせる施策をとっているのだが、運賃が小型バスより
高いので利用者は伸び悩んでいる。窓からの私の観察でも(ホテルの前が各種バスの停留
所)ミニバスは絶えずチョコマカと発着している。 ドアもない乗車口から飛び降りた男
(制服など着ていないのでどれが車掌かわからない)がこぼれ落ちそうなほどの客を押し
込んで出発してゆく。一方、悠然とやってくる専用バスレーンのバスの中はかなり余裕が
ある模様。
 ジャカルタに来た当初、四車線は車でギュウギュウなのに何で一車線だけガラガラなの
かわからなかった。この専用バスレーンはジレンマに落ち入っている。渋滞緩和の名目の
もと公的補助金の投入→ 補助金あるところに不正疑惑あり→ 補助金大幅削減→ 運賃値
上げ→ 利用客の減少→ 新路線建設で渋滞悪化→ 一般車の進入許可→ バス専用レーンの
はずだったのに渋滞になり乗客減少→ 一般車の進入禁止→ またまた渋滞。
 朝令暮改の代表例のようななりゆきだ。
 ジャカルタ中心部の渋滞と大気汚染は半端ではない。後日、郊外から街を眺める機会が
あったが高層ビルの上のほうはスモッグにつつまれていた。交通整理の警官や信号待ちの
間をぬって新聞や飲物スナック菓子を売る売り子違は布で口を覆っている。
 当局も渋滞緩和にはあの手この手を考えている。都心部を南北に貫くスディルマン・タ
ムリン通りには朝夕のラッシュ時には。“スリー・イン・ワン”規制が実施されている。
一台の車に三人乗っていないと通行できない。規制の始まる地点では待ちかまえ、二人乗
りの車に同乗して小銭を稼ぐ商売が生まれたとか……。 私設交通整理で稼ぐ手もある。
ロータリーや信号のない交差点(こちらのほうがずっと多い)で曲がろうとする車や、路
地から大通りへ出ようとする車を慣れた手つきで誘導すると、運転手が小銭をさっと手渡
している。あの渋滞の中でと感心してしまうすばやさ、阿吽の呼吸だ。こちらで車に乗る
たびに運転の機敏さというか大胆さに恐れ入る。この国には車間距離、追い越し禁止、一
時停車などという概念は存在していないようだ。警笛はけっこううるさいが、ソウルで見
たようにお互いにどなりあうこともなく、何か前後左右暗黙の了解があって運転している
としか私は思えない。
 ジョグジャカルタへ行った時、飛行機の出発時間に間に合わせようと、運転手が一生懸
命やってくれた。片側一車線の道で、追い越しのため反対車線をすっ飛ばす。前方からバ
イクが迫って来るにもかかわらずスピードも落とさず、もとの車線にも戻らない。私は思
わず目をつぶってしまったが、どちらも平然とすれちがった。いったいどういう感覚で運
転しているのだろう。それ以後なるべく前方を見ないことにして、運を天にまかせた(去
年十月に行った北京もすごかった。たくさんの車がそこのけそこのけの勢いで死に物狂い
で走っていた。信号付きの横断歩道を渡っていると大型観光バスが一時停止もせず、のし
かかるように右折してきた時は本当に恐かった。インドネシアでの恐さはもう少し穏やか
だった)。
 どこの国にもスピード狂はいるにしても、ジャカルタや北京の人達はどうしてあんなに
脇目もふらずに車やバイクを飛ばすのだろう。私のうがった見方かもしれないが、スピー
ドの中に、ある種の解放と自由を感じているからではないだろうか。
 ホテルの窓からは建築工事のビルが数棟みえる。けっこう大きなビルなのだが工事機材
も人員もとても少ない。いつ完成するのかと心配になるほど細々遅々としている。
ある雨の夜、十時近くなのにライトを数個つけて工事していた。雨で滲んだ光りの中に最
上階で働く四、五人の姿が浮かんでいた。

 ジャカルタでの第二の問題は治安だ。ホテル住まいだからといって、いつも窓から外を
眺めていたわけではない。といって、高級ホテルや大使館の立ち並ぶ通りを南国の草花を
楽しみながらの散策といかないところがジャカルタだ。外出の際は運転手付きの車かブル
ーバードタクシーを使い、絶対に独り歩きをしないようにと注意された。ホテルの向かい
側のハイアットも入っている巨大ショッピングモール・プラザインドネシアヘもタクシー
かホテルのバスを使えと言う。歩道橋もあるのにと思うのだが、両側からはさみうちにさ
れたりグループでとり囲まれたりすることもあるので止めろと大使館の人が言う。日本人
旅行者はおいしいネギ鴨にみえるようだ。どこの国の観光地でも現地のガイドや物売りに
つきまとわれているのは日本人が多い。

 ジャカルタでは、金持ちや外国人の多い住宅地やマンションやショッピンクモールの内
と、それをとりまく外との経済的格差は凄まじいものだ。高い塀や鉄条網に囲まれ、四、
五人の警備員のいるゲートは遮断機で開閉され敷地内はたえずパトロールされている。モ
ール内には世界的ブランド店、しゃれたレストランやカフェ、品揃え豊かな高級スーパー
やエステショップが並び、若者達や家族連れで賑わっている。私達が三月に滞在したジャ
カルタ郊外のカラワチにあるアルヤデウタホテルはカントリークラブが併設されているの
で、緑豊かな敷地の中には六面のテニスコート、バリ島風ラグーンプール、野外パーティ
ー(結婚式)もできる南国の樹と花に囲まれた広場、内にはジムはもちろん、インドアテ
ニス、バドントン、バスケットコートが設けられていた。
 スナヤンプラザにあるマンション住まいの知人宅に招かれると、まあこれが豪華。夫婦
二人なのでメイドは一人だが、会社からはそれぞれに運転手付きの車がつけられている。
家事、庭の手入れなど一切なし。グルメとショッピングとエステに興味があったらここは
天国だとか。「ご夫人方にとってはね」と側でご主人がにが笑い。しかし、言葉も風習も
異なる国で人を使って生活し、行く場所や行動が自由にままならないというのも大変なこ
とだろう。
 こういうマンションやモールやホテルから一歩外に出たとたん、別の世界が広がってい
る。外の国から来て、ほんのわずかな見聞で描写することなど許されないような貧しさが
そこにはある。
 夜遅く、ホテルのゲートの前を、首からすっぽりとビニールを被った少年が雨に打たれ
ながらたばこを売り歩いている。スーパーの前では、急な雨に傘をさしかけて駐車場まで
連れて行き、小銭をもらおうとする五、六才の子供達が大きな目を見開き真剣な表情で待
ちかまえている。家畜の飼料なのか刈り取った草を背中いっぱいにかついで老女が急な坂
を登っていく。飲物や菓子を売る間口半間ほどの店の中で、若者が臑(すね)をかかえて
じっと座っている。大きな荷物を持った客二人を前の座席に乗せ、ベチャ屋のおじさんが
ペダルを一生懸命こいでいる。道端には暗い目つきをした男達が何人もかがみ込んでいる。
 初めてのインドネシア体験がジャカルタ都心部のホテル住まいだったせいか、すぐ目の
前に広がる車社会と貧富の差の印象が強烈だった。この二つのことにページをさいてしま
った。ここで話題をかえよう。

(斜光13号 2008 「近頃のあれやこれや」シリーズより)>

67

 

NHKの「のど自慢」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月16日(月)06時34分45秒
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           NHKの「のど自慢」




  ダサイ、ウルサイ、イナカクサイ……。民放で花々しく繰り広げられる歌の番組や
  芸能界入りをめざして若者が喉と容姿を競う番組と比べて、日曜昼の「のど自慢」
  を見てそう思ったものだが、きっちりこの番組が記憶に残っている。番組司会者と
  伴奏者のプロ意識、出演する素人さんの素朴さ、今考えるとたいしたものだった。
  視聴者参加番組のさきがけといってもいいのだろう。そんなことに気が付かせてく
  れる著者の視点がいい。(編集部)





 私はNHKの「のど自慢」が大好きだ。家に居る時はたいてい見る。たまに見ないこと
があると「どうしたの、具合でも悪いの」と心配される。どこが好きなのかって正面から
きかれると困るのだが、とにかく日曜日の午後十二時十五分にはテレビの前に座ってNH
K第一チャンネルを押す。
 司会の宮川アナ(今は宮本アナ)がにこやかな笑顔で男女二人のゲスト歌手を紹介する。
開催地の風景をバックにしてその町や村の特色や特産物が披露される。さあ、町や村を挙
げての一大イベントNHK「のど自慢」の始まりだ。出場者が番号と曲名を言って歌い出
す。曲の一番の終わりくらいまで(だいたい一分ほど)歌ったところで鐘がなる。「カー
ン」だったり「カーン、カーン」だったり「キンコンカンカンカンカーン」だったり。そ
の間に出場者と司会のアナウンサーやゲストとの短い会話がはさまる。まったく単純な構
成だ。いろいろ趣向をこらし派手な演出を競うテレビ番組の中にあって、「のど自慢」は
もう六十年も続く長寿番組で、視聴率も音楽番組部門でトップクラスを保っている。

 「カタログハウス」という通販雑誌に「[のど自慢]はどうしていつまでも人気がある
のか」という座談会が載った。出席者は司会アナ(宮川泰夫)バンドアレンジャー(宮下
博次)番組プロデューサー(藪下浪宏)と座談会の司会者(高橋章子)。この記事を読む
までは、ただ楽しんで「のど自慢」を見るだけだったが、この番組の成り立ちを知って、
へえ-と感心したり驚いたりすることが多かった。
 毎回の出場応募数は八百~千通。無作為抽選で二百五十組を選んで予選をする。各組に
四十秒ほど歌ってもらい、本番に出場する二十組を決める。本番にすすめる確率は約五十
倍。「のど自慢」予選で二百五十組も通過するというのも驚きだが、それぞれわずか四十
秒余りの歌を聴いてその中から本番にすすむ二十組を決めるというほうがもっと驚きだ。
いったいどうやっているのだろう。「のど自慢」は予選も本番も歌の伴奏は六人編成の生
バンドで行われている。予選は二百五十組の譜面をポンと渡され初見で演奏する。全国を
六つのバンドで受け持っている。私の見るところ皆あまり若くはなさそうだが、NHK向
きの真面目顔、真面目奏。イントロも短く、音程も確かでない人達の歌にもよく合わせて
気持ちよく歌わせてあげるなんてまったく[伴奏のプロ]だと感心してしまう。
 司会の宮川アナの予選会での大事な仕事は、二百五十組の歌をきき、出場者それぞれと
家族や仕事や歌への思いなどについて言葉を交わすことだ。そうすることでその町や村が
見えてくるという。二百五十組の中から短時間に二十組選ぶなんて難しそうに見えるが、
案外そうでもないらしい。二十組のうち十五組くらいは割りとすんなり決まる。選考する
ってそういうことかもしれない。数が多いのは大変だが、いいものは誰が見てもいい。カ
ラオケやマスメディアのおかげで素人でも芸達者な人達が多い昨今だ。でも「のど自慢」
に登場するにはただ歌がうまい、コスチュームやパフォーマンスが人目を引くだけではだ
めだ。歌心があり、人間的魅力が物を言う。

 「のど自慢」を見続けているうちにわかってきたことがある。見終わったあとの満足感
が週によって違う。「あ-あ、今日はいまいちだった」と思うのは、県庁所在地やその周
辺の町や村で開催された時だ。出場者の印象がなんとなくつるんとしている。だから歌も
平坦だ。反対に満足度一〇〇%は農林産業が盛んな所で催された時だ。会場も一体となっ
て「明るく、楽しく、元気に」パワーが爆発する。港町の時なんて最高だ。出演者自体が
人間的魅力にあふれている。いい顔をしている。ゲストの歌手とのかけあいも面白い。こ
れは鐘一つだとか合格だとか自分も審査員になったつもりになってくる。けっこう当たる。
合格よかったね、ああ残念、若い人に甘い甘い、下手下手、などとテレビの前で叫んでい
る。
 宮川アナは本番に出場する二十組の人達にインタビューして、歌う曲の背景にどんな思
いがあるか聞いておく。短い紹介や質問の中に、その人の歌への思いや日々の生活や人生
のドラマが浮かびあがる。「歌」という全国共通のものを軸にして、たった四十五分の番
組の中に日本各地の風土と人々と生活がつまっている。私達はそれにうなずいたり笑った
り、時にはほろりとさせられたり共感する。ほんとうにすばらしい番組だ。

 しかし、この番組は作る側にとっては過酷だ。毎週金曜日の夕方現地入りし、土曜に予
選、日曜が本番。これが一年間に四十八週続く。休めるのは年に数回。宮川アナは平成五
年から今年三月まで十二年間司会者を務めた。まず第一に司会者こそが明るく楽しく元気
の代表でなくてはならない。宮川アナはまったくこれにピッタリだ。「長い間ご苦労さま
でした。いつも楽しませていただきました。ありがとう」と心からお礼を言いたい。
 「のど自慢」は時に海外へも行く。私の記憶に残っているのは、ブラジル、ペルー、ロ
ンドン、ハワイ、バンクーバーなどだ。海外からの放送のときは出場者の望郷の思い、日
本の歌を口ずさみながら乗り越えてきた日々の思い、日本を遠く離れて暮らすからこそ持
ち続ける日本人の心、それらがとりわけ切々と伝わってきて心を打たれる。
 NHK「のど自慢」よ、永遠に!

 読者の皆さま、今度の日曜日昼十二時十五分はNHK第一にチャンネルを合わせてくだ
さい。きっとファンになります。また、出場する機会に恵まれた方は私に一報ください。
近くなら応援に行きます。遠方ならテレビの前で熱烈な声援を送ります。

(斜光10号 2005 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

57

 

ぶんぶん蜂が飛ぶ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月12日(木)09時11分11秒
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            ぶんぶん蜂が飛ぶ




   著者は庭の植物、そして集まってくる生き物たちとの生活を楽しみます。
   「レストラン閉店」では鳥たちをとりあげていましたが、今回は蜂のようです。
   土いじりをしながら、小さな生き物たちを優しく見つめる著者の姿が浮かんで
   きそうです。 (編集部)




 去年の夏、五月の初めのある朝、こういうことがあった。
 南隣に住む義母の家から少しあわただしげに帰ってきた夫が、「北側の壁にあるガスヒ
ーターの排気口のすき間から、黒くて大きい獰猛そうな蜂が出入りしているよ」と言った。
見に行ってみると、確かに黒い蜂が壁の穴に潜り込んだり出て行ったりしている。ブーン
という羽音もする。なんだか恐ろしげだ。蜂に襲われて刺され、ショック死したという人
たちのニュースも頭をかすめた。世田谷区のしかるべき部署に届けて対処してもらったら
と指示して夫は出勤していった。「せたがや便利帳」を調べて「衛生害虫、不快害虫の駆
除相談係」に連絡すると、すぐ業者を派遣するという。昼頃にその業者が来てくれた。
 恐ろしげに心配げにしている私にひとりが言った。「心配ありません。これはマルハナ
バチです。何も悪さしません。七月頃になったら出ていきます。それまで辛抱してくれた
らだいじょうぶです」。「でも何かの拍子に刺したりしないかしら。壁の中に大きな巣を
作ったりしないかしら」となお心配する私に、「彼らを威かしたりしないかぎりだいじょ
うぶです。そりゃ、壁の中に少しは巣を作っているでしょうが、それを取り除くとなった
らこの壁全体を壊さなければなりませんよ」と相手は言う。なお不安気な私に「マルハナ
バチは穏やかな蜂です。悪さはしません。悪さはしません」と言う。まるで子供をかばう
親のようだ。顔を見ると、みつばちハッチのお父さんかおじさんにそっくりだ。さっきま
で獰猛な蜂だと思っていたのに、花から花へと飛びまわって蜜を集めるマルハナバチだと
思ってみると、何だか可愛らしげに見えてくる。
 結局、二人は小半時(こはんとき)ほど費やして、私にマルハナバチに対する好印象を
残して、一銭もとらずに帰っていった。
 壁の中に住みついたマルハナバチの一族ともおたがいに気にせずに共存していたら、い
つの間にかいなくなった。冬にヒーターを点検に来たガス会社の人がすき間をパテで埋め
てくれた。
 そういえば以前にも同じようなことがあった。その時は、駐車場脇のもちの木に蜂がか
なり大きな巣を作っていた。区の担当係に電話した。その時は見にも来ず「今まで何事も
なかったんでしょう。知らんふりをしていれば秋にはどこかに行ってしまいますよ。かま
わんでいてください」と簡単なものだった。上では蜂たちが忙しく飛びまわり、下では人
間どもが車やゴミの出し入れや犬の散歩で往来して数ヶ月を過ごした。いつの間にか蜂た
ちはいなくなってしまった。晩秋、見捨てられた巣を見上げて何だか少し寂しかった。
 今年の春、庭に二本あるエゴの木の花つきはとてもよかったが、花の間を飛びまわる蜂
が例年に比べるととても少ないようにみえた。巣作りにふさわしい所がみつからなかった
り、獰猛な蜂だと誤解されて駆除されたりしていないだろうか……。いまや蜂の親類の心
境だ。

 去年の夏は本当に暑かった。酷暑だった。夏に弱い私は体調を崩してしまって、ほとん
ど庭仕事ができなかった。あっという間に庭は草ぼうぼう、木にはやぶがらしがからみつ
き、木から木へ這い回り、いやはや凄まじいことになった。毎朝、雨戸を開けるたびに憂
うつだった。だが、ある日、今年は庭に揚羽蝶を見ることが多いことに気がついた。瑠璃
や黄や黒が、やぶがらしのオレンジ色の小さな密集した花の上をひらひらと舞う。久しぶ
りにオニヤンマの勇姿を見かけた。しかし、困ったこともおきた。蚊がとても増えた。揚
羽やヤンマはいいが蚊はけっこうというわけにはいかない。私は蚊に過敏症で、時に腫れ
たりするので医者に診てもらうことがある。近所の医院で「私はどうも蚊に好かれるみた
いです」と言うと、「蚊でも好かれればいいじやないですか」などと言う。この先生の専
門は藪科(やぶか)だったかしら。
 いくら揚羽が寄って来るとはいえ、去年のようにやぶがらしをはびこらせては木にも迷
惑だし、あまりにも荒れ果てたようにみえる。そこで今年は土からにょっきりと頭を出し
たところを引っこ抜くことにした。まあ、蔦類の生命力の強いこと、数日監視を怠ると木
に這い登りかけている。今のところ私が優勢だが難問も発生した。「ぶんぷんぶん蜂が飛
び、蝶々蝶々お花にとまれ」の庭にするには、彼らを引き寄せる何かが必要だ。
 今夏は、蜂蝶レストランの開店準備だ。といっても、もともと、虫めづる人には縁遠い
私だ。何かいい知恵があったら、ぜひぜひ教えをたまわりたい。

(斜光10号 2005 「近頃のあれやこれや」シリーズより)>

47

 

小さな旅 - 唐津 ―

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 6月 9日(月)07時57分2秒
編集済
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          小さな旅 - 唐津 ―
             「光る渚の……」



   父の残した絵や短歌を見ながら、父のの生を思い返す。
   父の生まれ育った故郷に立ち、亡き父を思う。
   両親の存在は年を取ればとるほど大きくなっていくのかもしれません。
   父を思う娘の気持ちが絵と短歌を夾みながら静かに綴られています。 (編集部)




光る渚の通学路 たわむれ渉るさざ波に
冷たき砂の感触よ あわれ子供の思出に
ふるさとの浜しのびては わずかに夏を銷(け)しにけり

街中のいけす飼はるるいそ蟹よ
汝もふるさとの海を恋ふるや

七月の空を仰げば ふるさとの
潮騒の音 胸にひびかふ

玄海の島の岡辺に牛を飼ふ
夢多かりし童なりしか

ゆく春を 西のはまべに 貝ひろふ
すぐ去りし日の夢のかたみに


 父の生まれ故郷は唐津だ。晩年まで故郷を懐かしんでもう一度帰りたいと言っていた。
九十歳を越してからはそれもかなわなかった。
 父の遺品を整理していたら、たくさんのスケッチブックや色紙や葉書絵があった。旅先
でのスケッチ、草花の素描などに混じって、唐津の風物がしばしば描かれていた。大島、
鳥島、高島、唐津城、鏡山、浮岳、虹の松原の風景や海の生き物が描かれたなかに、冒頭
の歌が書き込まれていた。

     



 父は明治四十一年(一九〇八年)唐津で生まれ、唐津中学を卒業して熊本の第五高等学
校に進んだから、唐津で過ごしたのは幼少年期の十五年間くらいだと思う。その後、昭和
二十年後半から十数年間の佐賀在職中は、家族ともども夏には唐津を訪ねた。昭和四十年
以降、東京へ住むようになってからも折々の法事や同窓会には帰っていた。父が唐津を愛
しているのは知っていたが、父の残した絵や歌をみるまで、「ふるさと」への思いがこれ
ほど強かったとは思わなかった。まだ気力体力があった時に、少し無理をしてでもお伴を
して、唐津を見せてあげればよかったとも思った。いつかやろう、いつか行こうのいつか
なんて来ることはないのだ。後悔の思いが離れなかった。
 父が亡くなってからちょうど一年になる去年六月中旬、私は追悼の思いを込めて唐津を
訪ねてみようと思いたった。

 六月十四日、福岡空港から唐津に向った。沿線の紫陽花や合歓の花が六月の景色だ。午
前中の車内は空いていて、筑前深江からは車窓いっぱいの海を眺めわたせた。浜崎を過ぎ、
虹の松原を右に、鏡山を左に電車は走る。高島や鳥島や大島の島影、こんもりとした木立
の上の唐津城も視界に入ってくる。
 「ほら、お父様、懐かしい唐津へ帰って来ましたよ」と呼びかけた。
 その日の午後は呼子と名護屋城跡へ行ってみた。宿は唐津ロイヤルホテルにしたので、
眼前に父がよく描いていた風景が広がっていた。穏やかな静かな夕暮れの海だった。翌朝
四時半頃目覚めた。明けてゆく朝の空と海を味わった。六時に散歩に出た。ホテル近くの
民家の軒先に、五年前に死んだジョンとそっくりの犬がつながれていたので、うれしいび
っくりで写真をとった。松浦川が広々として気持ちよかった。松浦橋を往復した。鏡山が
堂々としていた。舞鶴橋を渡って唐津城へ行った。天守閣前の広場に、父の素描帖にも描
かれていた大きなホルトの木があった。そのごつごつした幹、いっぱいに広げた太い枝、
繁る青葉を父も感じ入って見上げたのだろう。城の高台から眺めると眼下にいくつもの島
影を浮かべる唐津湾、松原の濃い緑、白い砂浜と打ち寄せる波、唐津の町並みが柔らかい
静かな朝の光の中に広がっていた。




    

 城と唐津東高校の間の道を浜のほうへ降りてみた。校舎から朝のざわめきが聞こえてき
た。
朝練か途切れ途切れの楽器の音もする。浜に降りてみてこの学校はなんていい場所にある
のかと思った。ふと、「光る渚の通学路 たわむれ渉るさざ波に 冷たき砂の感触よ」と
いう一節がよみがえった。父が通った小学校や中学が唐津のどこにあったのか、私は正確
には知らない。だけど、今いるここから西へずっとつながっている浜のどこかで、少年の
父が友達と波にたわむれ、後になり先になり笑いさざめきながら元気に通学していたのだ。
ふいに涙がこみあげてきた。

 東京を出る時に、すぐ下の妹から、唐津の海へ流してと、父宛の手紙を渡された。その
頼みを果たすため虹の松原駅で途中下車した。駅前の店に荷物を預け、松原の中の広い道
を浜に向った。海浜館の横を抜けて浜に出ると、薄茶色の砂浜、霞んだ薄水色の海と遠い
島、それより少し濃い水色の高島と鳥島と大島がひらたく広がっていた。波がポチャンポ
チャンと浜に打ち寄せていた。妹に頼まれていた手紙と[ふるさとの海を恋ふていた]い
そ蟹を波に託した。穏やかな波なのでなかなか渚を離れていかなかった。いくらか大きな
波が来ると少しずつ浜から遠ざかっていった。水色の波間に白い二葉の望郷の思いが漂っ
ていった。
 次の電車まで時間があったので、駅前の重(しげ)商店の人のよさそうなおかみさんと、
樹齢四十年になるという藤棚の下でしばらく話をした。後ろに青々とした元気な鏡山がひ
かえていた。
 父は今、東京巣鴨の染井墓地に眠っている。
 けれども父のふるさとを恋う思いは、父母兄姉と過ごした岡の上を渡り、光る渚で幼い
頃の友とたわむれ、波の音をききながら松原を吹き抜けてゆく風となって私の心に届いて
くる。

(斜光10号 2005 「近頃のあれやこれや」シリーズより)>

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趙 偉路さんのこと

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月31日(土)20時37分16秒
編集済
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            趙 偉路さんのこと




 朝の仕事を終え一服していると、ラジオから流れてくる歌声に引きつけられた。 歌は
"早春賦"だった。伸びやかな柔らかい声で情感がこもっていてとてもよかった。歌ってい
るのは誰だろうと耳を傾けていると、この朝のNHKの番組「ときめきインタビュー」に
出演しているのは、中国蘇州出身の李広宏という男性歌手だった。一九六一年生まれで文
化大革命の変革の激しい時代に青年期を過ごした。中学生のころラジオから流れる「夏の
心い出」の旋律に魅了された。中国でも音楽を学びいろいろ紆余曲折があったが日本への
留学を志し八九年十二月の雪の日に成田に着いた。ひとり狭い汚いアパートで荷を解き母
親が編んでくれたセーターが出てきた時は、涙があふれたそうだ。「母さんの歌」の心を、
母の愛をしみじみと感じたと語っていた。午前中は日本語の勉強、それから夜遅くまでの
掃除や皿洗いの苦しいアルバイトの日々、いつも歌が慰めだった。インタビューの中で李
さんの歌う曲がいくつか紹介されたが、彼はどの曲も日本語と中国語の両方で歌っていた。
 中国語で聴く日本の唱歌もすばらしかったが日本語で聴く中国の歌もよかった。一言一
言大切にして歌う彼の歌声には彼の人間性があふれているようだった。現在は主に関西で
活躍しているようだが、東京で公演があったらぜひ聴きに行きたい。CDも出ているよう
だから探してみよう。
 李広宏さんのインタビューをきいていて私は中国上海出身の趙 偉路さんのことを思い
うかべた。活躍している場はちがうけれども二人は同世代だ。
 私は外国人に日本語を教えるという仕事でかなり多くの国々の多くの人々と知り合った
が、その中で特に趙さんと縁があったのは唯一保証人になっていた五年間があったからだ
(といっても納税証明書などのことで実際に保証人になったのは夫だったが)。何事であ
れ保証人になるというのは難しい決断を要することだ。ましてそれが何の面識もなかった
どこの誰ともわからない外国人留学生となるとなおさらだ。夫も初めはとても渋っていた。
当然だろう。それまでも学生達から保証人問題ではいろいろと相談も受けていたし、「保
証人になって」と頼まれたこともあったが断っていた。どうして趙さんの時だけかなり熱
心に夫を説得してまで引き受けたのだろう。
 直接趙さんに頼まれたのだったら断っていた。クラスが始まって半年たったころ、趙さ
んの同級生台湾出身の李行雄さんが「先生、趙さんが保証人のことでとても困っている。
今、趙さんを助けなかったら日本人の恥だ」と言ってきた。私は自分を日本人代表とは思
っていなかったが、日本人の恥だといわれれば聞き捨てならない。確かにわたしも趙さん
に会った最初の授業の日から、彼が他の学生とは違うこと、李さんは学力の点では超優秀
とはいえないが人柄がとても良いことは認めていた。その李さんの「日本人の恥だ」とい
う一言が効いた。
 その後の趙さんの歩んだ道を知ると在京中の五年ほど保証人を引き受け、高久財団(ア
パレルメーカー高Qが支援していた、社長の高久氏が父の知り合いだった)の奨学金(院
生には十万円、しかも返済義務はなしだった)をもらう手助けできたりしたのは本当によ
かった、日本人の恥にならずにすんだという思いだ。
 趙さんのことが家族で話題になると「あんな人もいるんだねえ、努力のひとって趙さん
のことだね」という結論に達し、努力という言葉に縁遠い生活をしている者どもはただた
め息をつくのみ。
 さてその肝心の趙さんのことだが、 彼が「留学生活十一年をふり返って」という題で
一九九九年春にアジア学生協会の冊子に書いたものを参考にざっと記してみる。
 一九六〇年上海生まれ。高校二年の時、文化大革命が終息し、約十年間実施されなかっ
た大学入試も再開され、中国伝統医学専門の上海中医大学に入学、卒業後は市中病院に配
属され内科医として四年間勤務。しかし個人の意志や頑張りがまったく認められない体制
に嫌気がさしていたところに、社会状勢の変化もあって西側への留学のチャンスも広がり
だしてきた。一九八八年、当時中国での月給は円にして千八百円程度なのに、友人から三
十万円借り学費を納め、二万円のみをもって来日(中国からの私費留学生のほとんどがこ
ういう状態だった)。着くとすぐに日本語の習得とアルバイトに明け暮れる東京での生活。
建築現場の肉体労働、上野のカプセルホテルでのマッサージ、頭にターバンを巻いてカレ
ー専門店のビラ配り、数々のアルバイトを経験し、アメリカの大学に自費留学した弟への
送金もしていた、
 私が日本語を教えはじめた当初は、趙さんのように青少年期を丈化人革命の激動の中で
過ごし、住む所も職業も勤める所も自分の意思で選べず、個人の努力も報いられない社会
体制の息苦しさを経験して日本に留学して来た二十代後半から三十代前半の人達は少なく
なかった。彼らは日本語こそ拙(つたな)かったが人間的には大人たった。あの程度の日
本語でどうしてわかりあえたのか不思議に思うのだが、紅衛兵だった時の体験談、下放さ
れた農村で豚に名前をつけかわいがっていた話、村が大嵐に襲われた夜の出来事など今で
も時々思い出す。
 話が横にそれてしまった。趙さんのその後にもどそう。彼が東大大学院医学部研究科に
在学していた間は保証人として資格更新の折など交流があった。ある日突然、西洋医学を
一から学ぶため信州大学医学部を受験する決心をしたという話をききびっくりした。彼の
ことだから考えに考えた末のことだろうとは思っていたが、本当に合格したと報告を受け
た時はまたびっくりした。今度は喜びのびっくりだった。
 信州松本へ行ってしまってからは賀状や暑中見舞での交流だったが、友人に恵まれ山岳
部にも入り学生らしい生活を満喫し、アルバイトもNHK文化センターや日中友好協会で
の中国語講師で落ち着いた生活を送って
いる様子がうかがわれ、私も嬉しかった。
 趙さんは五年生の夏、学内で知り合った日本人の女性と結婚した。私たち夫婦が立会人
を頼まれた。五月のさわやかに晴れた日、諏訪湖をへだててはるかに霧ヶ峰、美ヶ原高原
を望む山荘風ホテルのベランダでの野の花にあふれた式は気持ちの良い印象に残るものだ
った。
 結婚の前にもその以後の生活の厳しさは十分に予想していたようだが、現実はそれ以上
だった。経済的困難、妻の病気入院手術、医師国家試験の準備等々、とにかく一番辛い試
練の時期だったと彼も書いている。

 一九九九年五月、信州の佐久綜合病院で研修医生活のスタートをきった。翌々年の秋、
私達は佐久に彼を訪ねた。男の赤ちゃんも生まれ、白衣姿も板についていた。そのとき彼
は、渡米してアメリカの医師教育を受けようという新たな夢があると語った。私は三度目
のびっくりをしてしまったが彼ならいずれ実現させるだろうと思った。実際二〇〇二年十
二月に一家でロスへ移るというので、秋に山中湖の山荘に一泊してもらって久しぶりにゆ
っくり話した。そのときは長野県の飯田市立病院に勤務していたので松茸を人籠持って来
てくれた。炭をおこして焼松茸を堪能した。
 この文を書いていたらロスの趙さんから第一信が来た。一家そろって英語習得に励んで
いるとのことだった。
 趙さんの軌跡をたどってみる時、彼をかりたてている信念というか目指しているものは
何なのだろうかと考えてしまう。
 「東洋と西洋の医学を融合させ患者の全体像を見極め診察できる医者になりたい」とい
うことを実現させる道程なのだ。
 それは歌手の李広宏さんの歌声が国を越えて聴く人達の心に響くように、癒すという行
為をとおしてどこの国だろうと病む人達に大きな救いとなってくれるだろう。
 台湾の李さんとはずっと音信が絶えてしまった。彼の一言が趙さんをここまで連れて来
たきっかけになったことを知ったら、あの優しい顔をくしやくしやにしてどんなに喜んで
くれることだろう。そうだ、李さんを探して連絡をとってみよう。
 <付記> 趙さんは、現在宮下姓を名乗っているが、ここでは私が永年呼び慣れた
趙 偉路を使わせていただいた

斜光8号 2003 「近頃のあれやこれや」シリーズより

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読書の夏

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月31日(土)19時34分49秒
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               読書の夏




  この表題は誤植ではない。今時誤植なんて言葉が使われているのかさえ大いに疑問だが
とにかく読書は夏である。“斜光”が発行されるのは毎年秋だからもうまにあわないが私
の説に賛同したらぜひ来夏から試みていただきたい。
 老いてゆく身近な人達の考え方や暮らしぶりをみるにつけ、また私自身も還暦をむかえ
てから急にまわりのごたごたぶりに精神的にも体力的にも「ああ、もうやぐらしか」と思
うことが多くなった。人間関係のごたごたはそう簡単に解決がつかない。どういう理由か
私にはわからないがごたごたを生きがいにして生きているとしか思えない人達がいること
もわかってきた。一朝一タに片付かない人間様のことはなるようにしかならない達観しな
いとこちらの身がもたない。
 だが我が家の物の雑多さは自分で整理すればすこしはましになるかとそれにとりかかる
ことにした。まず目につくのは紙の類いと本と雑誌、それに衣類だ。紙(書類だの報告書
だの会議録だの)の所有者は世帯主のT氏のもの、これにうっかりさわるとうるさい。私
にすれば何十年も前の報告書などに何の有用性があるかと思うがT氏が40年近くにわたっ
て一家の生活を支えてきた源だと覚えば阻末にできない。T氏は私の本や雑誌が元凶だと
主張する。なるほどそうかもしれないと大いに反省しまずそれの見直しからとりかかるこ
とにした。
 本の整理を志した方はだれでも経験がおありだろうが、引っ越しの折にダンボール箱に
入れられそれ以来一度も開けられずにどこかに積みあげてあった本でも、いざ引き出して
処分しようとすると難しい。それは決して高価でも希少本でもない。普通のハードカバー
の本か文庫本である。以前、ゴミ集積所で居間の立派な本箱に仰々しく飾ってある美術全
集だの世界文学全集だの百科事典の類が山積みになっているのを見たことがある。一度も
開かれることなく捨てられたそれらは無残な気がしたが、どんなに高価で立派にみえるも
のでも、ひとは自らひとつひとつ手に選び取り何かのふれあいが感じられないものには感
心をもてないのであろう。これは何も本に限ったことではないが……。
 そうそう私の文はすぐ本題からはなれてしまう。一大決心をして本の整理を始めたとこ
ろにもどらなくてはいけない。久しく開けたことのない書棚から思いがけない文庫本の一
群がでてきた。「モッデ・タリスト伯全七冊」「クオ ヴァディス全三冊」「レ・ミゼラブ
ル全七冊」「怒りの葡萄全二冊」「魅せられたる魂全十冊」「人間の絆全四冊」「アンナ・
カレニーナ全五冊」「テス全二冊」等々。表紙の色も変わり旧字体のものも多く活字も小
さくて読みづらい。なかにはどこに感激共感してひいたのか今になってみると全然思い出
せない箇所に傍線を書き入れた本もある。ただまざまざと思い出したのはまだ三人の子供
達が幼く騒々しく私にまとわりついていたあの幾年かの夏の暑い日々の雰囲気である。ゆ
っくり読んでいる暇なんてないがそれでもちょっとした時間をみつけて本を開いていると
必ず誰かが何か言ってくる。そばでけんかする。エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト
伯)の運命やいかにという時に「ご飯」なんて言われると人参でも口につっこんでやりた
くなる。ネロの時代のキリスト教徒受難の物語を読みながら一方では玩具の取り合いの仲
裁をする。フランス革命下のジャンバルジャンの身を案じながら子供達が口々に言いたて
ることに答えてやる。大砂嵐と農業の大規模機械化によって故郷の地を追われてカルフォ
ルニアヘ希望を求めて向かうジェード一家の物語は当時自分の家族を形成しつつあった私
の気分に合い、一方ではアメリカの生活の後で帰国し狭い空間の中で家事と育児に追われ
ざるをえない生活の閉塞感で私自身の怒りの葡萄もふつふつと発酵しかけていたのかもし
れない。
 古い書棚から出てきた文庫本全てをそのころ初めて読んだわけではないが(ずいぶん以
前のものもあった)ぜかこれら四つの物語はあの暑い夏の日々に結びついている。
 子供達からかなり手が離れても夏の暑い何もしたくない時は(もちろん昼寝も大いに楽
しんだが)私はかえって長篇小説を開いた。「すべてのことには時がある」という言葉が
私は好きだ。本でもそうだ。いくら世に名作必読の書と言われようとその時わからないも
のはわからないし面白くないものは面白くない。わからないものがわかる時もあるし面白
くなかったものが面白くなる時もある。例えば高校生の時「風とともに去りぬ」を読んで
何て何て面白い小説だろうと感激し、夜、隣の妹に遠慮して布団の中に懐中電灯まで持ち
込んで読みひたった。映画の影響もあったろうがとにかくレット・バトラーの科白にうっ
とりし場面の展開のすばらしさに本を閉じることができなかった。しかし「戦争と平和」
なんてどこがいいのかさっぱりわからなかった。長いというだけでなく似通った名前の登
場人物や歴史の知識のなさも手伝ってすぐに投げ出してしまった。ところが後年頭も変に
なりそうなくらい暑くてたまらない夏のある日恐らく頭が変になりかかっていたのだろう
か「戦争と平和」を開いたら引き入れられてしまった。帯のうたい文句、“文豪トルスト
イの壮年期の傑作! ナポレオンのロシア遠征を背景に人生の動と静を織りなす壮大な絵
巻、四千五百枚息もつがせぬおもしろさ。永遠の若さ人類の必読書!”に初めて頷いた。
ロシアの冬将軍に追われてのフランス軍敗走というのが夏向きだったのかしら……。
 本を整理していたら河出書房新杜版世界文学全集の「ジャン・クリストフ三巻」もあっ
た。これも長らく長らく開けていなかった。驚いたことに最後のページに1961年3月リー
ダースダイジェスト社のアルバイト報酬で購入と書いてあり、文章のあちこちに傍線が引
いてあった。今になるとなんでこんな箇所に感激し共感したのかわからず気恥ずかしくな
るようなところもあった。だが確かにあの時代は大きな共感をもって読んだのだ。しかし、
どんな暑い夏の日にももう「ジャン・クリストフ」を読みなおすことはないだろう。
「ジャン・クリストフ」に会うにはあるエネルギーが必要だ。
 とりとめない思い出の文になってしまった。要は暑い夏の日は何か長い長い小説をひも
とかれよ、きっと何か思いもかけない発見があるという私のおすすめ。結局、本の整理は
つかず、人間関係同様ごたごた続きというお粗末な結末に相なってしまった。


 [付録一] 読書の秋冬

 前の文章を書いているうちにこの同人誌発行の時期にぴったり合うことを思いついた。
「漢詩」を味わうことである。私の漢詩の知識といったら高校の漢文で習ったことぐらい
でそれも今はほとんど何も覚えていない。“春眠、暁を覚えず。処々、啼鳥を聞く”“国
破れて山河あり、城春にして草木深し”“西の方陽関を出づれば故人無からん”といった
誰でも知っている有名な句の断片と杜甫や李白という名前を思い出せるぐらいだ。ところ
が私が購読している隔月刊の雑誌に「漢詩を味わう」という講座が設けられた。時代も内
容も作者も様々な詩がとりあげられ一回二編、原文読み下し文解説が載った。中国の古い
人々の生活や気持がにわかにとても身近に感じられた。いつの日かぜひ中国を訪れてみた
いという強い憧れが生まれた。
 人生の秋冬に向かうこれから、漢詩は私のよい道連れになってくれるだろう。


 [付録二] 古典だけというわけじゃ……

 本稿を読み直してみたら本の整理がきっかけになった読書の思い出がテーマになってい
るだけにどうしても古い本だけの登場になってしまった。小宮久美さんや江口裕子さんな
ど旧くからの友人に会うと必ずといっていいほど私が彼女らに徳富蘆花の「自然と人生」
を読むことをすすめ図書館で「源氏物語」(?)を読んでいたという話をもちだすので覚
えのない私は赤面するばかりだが、新しい本だって読んでいることを実証するためにその
中から特に深い感銘を受けた本を記しておきたい。その本と「時」が会えばあなたの心に
も何かを届けるかもしれない。
 まず最初はアーシュラ・K・ル=グウィン著清水真砂子訳の『ゲド戦記』四巻である。
最近流行の魔法使い物語りはハリー・ポッターだが、私は魔法使いが登場する物語ならゲ
ド戦記だ。作者が表現しようと意図するものがそれぞれ違うだろうが私はゲド戦記のほう
が内容が深く哲学的だと思う。第一巻を読んだのはもう四半世紀前になる。徳富氏の「自
然と人生」には申し訳ないがあの頃にこういう本に出会えていたらと思わずにはいられな
い。
 次はロバート・N・ぺック著金原瑞人訳『豚の死なない日正・続』である。本の献辞に
著者は記している。「父ヘイヴン・ぺックに……父は寡黙で穏やかで 豚を殺すのが仕事
だった。」「農場では男のように働いたけれどもいつもギルドよりやわらかだった母と叔
母に」と。これがこの物語の全てを語っている。
 私達が生まれ育った時代は生あるものであろうとそうでなかろうと全てのものとの関係
が狭く乏しかったが近かった。現代は多くのものが反対になってしまった。
 牛や豚や鶏が伝染病に汚染されているといわれ廃用牛などと名付けられ何万何十万何百
万という数の家畜達が(家畜という言葉さえ今はふさわしいのだろうか。)処分という名
の下に殺され、ただ炎の中へ消えてゆく。
 最後はフィリップ・ロス著柴田元幸訳『父の遺産』である。 著者ロスの父親と同じ病
(脳腫瘍)で86歳たった夫の父を見送った体験の後に読んだだけに発病を知る前後のこと
看病介護の日々のこと死に至るまでのこと様々に思い出され印象深かったが、その時はそ
の経験がまだ余りにも生々しく残っていたのでかえってこの本のい意味がわからなかった。
 私の父は今日六月二十八日94歳の誕生日を一年二ヶ月人院しているべッドの上でむかえ
た。一ヶ月前まではなんとか保っていた嚥下力も衰え鼻からの経管栄養になってしまった。
誕生日のお祝いかたがた見舞いに訪れた孫娘の「大父(おおとう)ちゃん、お誕生日おめ
でとう、94歳だよ、よかったね」の呼びかけにはかすかに目をあけ反応したようにみえた
が次の瞬間には眠りに引き込まれてしまう。父が今どうなっているのかこれからどうなる
のか私にはわからない。兄妹間、主治医との話し合いでは「父はもう高齢、無理な延命は
しないで」ということになっている。だが無理な延命とは何だろう。第一延命というのは
何を指すのだろう。ふと再読したロスのこの本の中で今いちばん涙があふれ出るのはロス
が父親に“Dad I'm going to have to let you go" (父さん、もう行かせてあげるしかな
いよ)とささやく場面、一度だけでなく二度、三度と。
 ああ、何という時代を生きているのだろうと思う時がある。
 だがどの時代でも、男であろうと女であろうと、若かろうと老いていようと、富んでい
ようと貧しかろうと人々はいつもああ何という時代に生きているのだろうと思いつつ生を
営んできたのではないだろうかその思いに強弱、大小、深浅はあったにしても。

(斜光7号 2002 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

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レストラン閉店

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月31日(土)19時04分34秒
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             レストラン閉店




 小さな個人商店の立ち並ぶ商店街の寂れぶり変ぼうぶりは、余りにも普通の状況で話題
にもならなくなった。私の住む町も例外ではない。日常生活物資を商っていた店のいくつ
かは店を閉じそのあとは持ち帰りの惣菜や揚げ物や寿司の店や大きなチェーンのドラッグ
ストアになった。


 だが、今回の表題の「レストラン閉店」は人間様用のではない。小鳥レストラン閉店の
顛末である。そもそも最初の店は20年以上前に東京の西の郊外小田急沿線の柿生に持った。
その頃の柿生は多摩丘陵の宅地開発が始まる初期の新興住宅地で、自然はまだ充分にあっ
た。娘を幼稚園へ送ってゆくのに歩いて30分かかったがヒバリが空高く嚇りキジやコジュ
ケイもいた。オナガは梢に群れムクドリは地中の虫探しに懸命だったし、シジュウカラは
枝から枝へ身軽く飛び移りメジロはさざんかや椿の花に頭をつっこんでいた。 ツバメも
企業クラブハウスの入口に巣をかけ広いグランドの芝生の上を飛び交っていた。モズは長
い尾を振りながら高い枝で獲物を狙っていた。夕方になると小さなコウモリが飛び回って
いた。蛇が道を横切るのをみたこともある。谷戸の季節ごとの美しさは今も目に焼き付い
ている。子供会では竹の子掘りが春の年中行事だった。隣地にまだ家が建っていなかった
ので25坪ほどの畑を作り多種多様の野菜や草花を育てた。 意図した訳ではないが現在の
園芸畑作ブームからみるとずいぶん進んだ生活をしていたことになる。
 ある冬の日、住宅地内の友達の家に招かれた。庭に餌台が置いてあった。次々とそこに
来る小鳥達の仕種にすっかり魅せられてしまった。見なれた鳥達だと思っていたがすぐ近
くで見ると違いがよくわかる。さっそく我が家でも居間の前の花みずきの木の座りのいい
幹の間に手作りの餌台を置き、ひまわりの種粟稗黍を入れ、枝にみかんやりんごを刺し、
牛脂を枝にぶらさげてみた。スズメ、ヒヨドリ、キジバト、メジロ、シジュウカラ、ジョ
ウビタキ、カワラヒワ、シメ、ツグミ、オナガ、ほんとうに種々の鳥達がやって来た。家
の中から見ているとほんとうにかわいい。小鳥それぞれの嗚き声や声の意味の違いや好み
もわかってきた。ヒヨドリやメジロはみかんが大好き。メジロはつつましく、ヒヨドリは
房をひっぺがさんばかりにパクリとやり満足げ。シジュウカラはひまわりの種好き。その
食べ方の器用さには驚いた。種をひとつくわえると近くの枝に飛び移り足で圧さえ嘴で割
ると中の身だけ食べ殻をぺッとまき散らすとまた次のひまわりを取りにゆく。花みずきは
もとより庭の他の木の回りはまき散らされた殼だらけになってしまった。スズメやキジバ
トは穀物好き。だが困ったことがおこった。キジバトはスズメを追い払い餌台を独占し悠
然と食べ尽くしてしまう。カラスにも困った。シジュウカラ、ウグイス、メジロなどは牛
脂が好きだと知ったのではじめはネッ卜に入れて枝にぶらさげた。ネッ卜にしがみついた
り宙返りのように逆さになって脂をつつく小鳥達はほんとうにかわいらしかった。でもあ
る日突然ネッ卜ごと全部なくなっていた。カラスだ。友人に教えられて金属の螺旋状にな
った筒の中に脂身を入れてぶら下げる外国製品まで大枚を払って購入し一時期はこの作戦
は成功した。離れた木に止まって口惜しそうにみているガラスに「どうだ、まいったか」
とほくそ笑んでいたら、これもある日入れ物ごとかき消えてしまった。かなり重く中の脂
を食べるにも頭をつかわなくてはならなかっただろうからカラスもご苦労なことではあっ
た。
 工夫好きの夫が屋根をつけ一本の細い針金を四方ぐるりとフェンスにした小さな小鳥達
用の餌台を作り花みずきの枝にぶら下げてくれた。メニューもいろいろとりそろえ、屋外
カフェと屋根付きレストラン、クリスマスを目安に開店し春の彼岸を閉店とする冬期三ヶ
月限定。“小鳥レストラン柿生”は繁昌し、私達も小鳥達の自然に生きる姿を目近にみて
本当に楽しませてもらい、柿生での忘れ難い思い出をたくさん残してくれた。


 やがて年月は流れ世田谷に住んでいた夫の両親も70代後半になり家も老朽化してきたの
で南側に親、北側に私達の家を建てて住むことになった。犬を飼い始めたし私も外で仕事
をするようになったりと家の内外のことで忙しくしていたので小鳥レストランのことは忘
れていた。でもある年、東京でも雪が多い冬があった。庭の雪景色をみていると雪の積も
った中にわずかにのぞく千両の赤い実をついばむヒョドリ、さざんかの花の中にもぐり込
んでいるメジロ、寒そうに軒下に並んでいるスズメ達、花みずきの枯れた枝から枝へ飛び
移って餌を探しているシジュウカラの姿が目に入った。ああこんな寒い雪の日、人間達は
暖かい室内から雪の降るのもいいものだと眺めているのに小さな鳥達は必死になって食べ
る物を探して生き抜こうとしている。柿生の冬の庭の賑いを思い出した。そこでさっそく
雪の上にパンくずを撒き枝にみかんを刺してやった。雪の中買い物に出てひまわりの種も
まいてやった。すぐに鳥達がやってきた。小鳥レストランの経営には経験があるから納戸
にしまってあったオープンと半クローズドの餌台を安定のいい幹の間に置いたり枝につる
した。スズメ、メジロ、シジュウカラ、カワラヒワ、ヒヨドリ、キジバトが常連になった。
赤褐色の羽をひろげたジョウビタキの姿をみる時や樹々の茂った繁みの中で地味な茶色の
姿がチョコチョコ動いているのをみつけると、ウグイスかしらミソサザイかしらなどと思
ったが何しろ本格的知識がないのでわからない。時には原色的な緑のインコの一群が騒が
しく現れて驚かされたこともある。世田谷のカラス達にはこの小さな庭の小さな脂身なん
て一顧だにも値しない。ゴミ集積所の袋をつつけばいくらでもおいしいものが出てくる。
る。
 冬期限定「小鳥レストラン松原」も順調営業だった。 鳥達もこの庭が気に入ったのか
マイホーム作りまでした鳥が現れたのには驚いた。
 ヒヨドリだ。ある時台所の東側の窓の外をヒヨドリがよく行き来するのに気がついた。
窓から3メートル位、隣家とのフェンスのすぐそばの木に出たり入ったりしている。たい
して繁っているとも思えない木の枝の三角になっている所に白いビニール紐が目立つ巣が
ある。とにかく手を伸ばせば届くような所だ。庭にはビーグル犬のジョンが歩きまわって
いる。ヒヨドリ夫婦の選択の理由は私にはわからないが彼らはそこに巣作りをしヒナを育
て巣立ちの日をむかえた。ある日庭が騒然とした雰囲気になった。ジョンは庭をかけ回り
ながら吠えたてるし親ヒョドリの声ヒナの鳴き声もする。急いで庭に出てジョンを家に追
い込んだ。みると、巣のある木の枝やその下のフェンスの柵に三羽のヒナがしがみつき、
親鳥は一方でヒナを励まし一方で私や犬を威嚇するように嗚き立てながら周囲を飛びまわ
る。異変に気がついたのかもう一羽ヒヨドリが加わった。(父親なのかしら)ちょうど在
宅していた娘達もどうしたのと外へ出て来た。元気そうな二羽は少しずつ低い枝から枝へ
と移って行く。最後に出て来た三羽目は木のこみいった所へ入り込んでしまってビーピー
鳴き立てる。親も一生懸命飛びまわり鳴きたてる。娘がもう少し飛び立ちやすい所に出し
てやろうと手の平に乗せた。(後で知ったがこれはいらぬお節介の行為だったらしい)。
どこに骨があるかと思われるような柔らかさ、黄色い口は蛙のように横広がりで生きてゆ
くのは何と大変なのかともう悟ったようにふうっと溜息をついている。しかし娘の指をが
っしりつかんだ足は上体の何となくひょうきんな様子と異なり鳥の先祖は恐竜だという説
に頷けるようなたくましさだった。そうやってヒナが溜息をついている間にも親鳥は「こ
っちへおいで、おいで」というふうに大きな花みずきの枝に止まったり南隣の家の瓦屋根
に飛び移ったりして呼びかける。娘が花みずきの枝に乗せてやるとそのヒナもやっと決心
がついたのか枝から枝へ少しずつ飛び移って最後に親の待つ屋根に飛び乗った。滑りやす
い瓦にずり落ちそうになりながらも何とか親に導かれ棟を越え南側のほうへ姿がみえなく
なった。その間三十分ぐらいの巣立ちシーンだった。その後ヒヨドリの姿をみたり囀りを
耳にすると「ウチのヒーヨちゃんじゃないだろうか。三羽とも元気に無事に育つたかしら」
と家族で話題になった。その頃自分でも問題をかかえているようにみえた末の娘は「鳥も
生きてゆくのって大変なんだねえ」としみじみと同情していた。
 季節は冬に限っていたが餌が途絶えないように気をくばり、「野鳥を呼ぶ庭作り」とい
う本を買ってきてバードケーキまでメニューに加えた。これは小鳥達に大好評だった。
「庭に来る野鳥21種」の中で私の知識で見分けられただけでも14種はあった。一番多かっ
たのはスズメ達だがメジロ、シジュウカラもよくやって来て軽業師のような姿をみせてく
れた。カワラヒワは近くの公園ではあまりみたことがなかったのに世田谷でもこんなに集
まって来るのかと思うほど来た。パッと飛んだ時の鮮やかな黄色は今も目に残っている。
ジョウビタキはめったに目にしなかったがこれも炎のような赤褐色が忘れられない。ツグ
ミはバードケーキを出すようになってから時々姿をみせるようになった。私はツグミが好
きだ。何か思慮深げな印象を受ける。ある年の三月、外をみていた私と庭に降りたったツ
グミとふと目があったような気がした。確かに私のほうをじっと見ていた。私にはそのツ
グミが北へ帰る前に「さようなら、ありがとう」と言いに来てくれたような気がした。
私も「元気でね、気をつけて海を渡るのよ、また来てね」と言った。
 松原の餌台に来る鳥の数は郊外の柿生より多かった。庭は種や穀物の殼が飛び散り樹や
草花の枝や葉はフンで白く汚れていたが、冬の間だけのことだし、目の前でくり広げられ
る小鳥達のドラマは興味深く、疲れて落ち込んでいる時には笑わせて慰めてくれた。


 ところが二年前のある日、東隣の奥さんから突然電話がかかってきた。「お宅では小鳥
に餌を出していらっしやるでしよ。庭の樹がフンで汚され、月に一回日本画の集まりをや
っているが友達もこれはひどすぎると言っている。司法試験受験のため夜遅くまで勉強し
ている息子も朝早くからチュンチュン嗚くスズメに目をさまさせられて困っている。餌台
をうちからもっと離してもらいたい」という主旨だった。離してくれと言われたって町中
の狭い庭、小鳥達に食べたところでトイレもしなさいと言い聞かせたくても無理なこと。
第一、もう何年も試験に挑戦しているときく息子さんがスズメ達のせいでまたもう一年と
なったら申し訳ない。これは餌台はやめてくれということだ。
 私も考えた。隣は前年の秋、専門の庭園設計家に頼んでばっちりと模様変えをした。鳥
達はうちの餌台から種をくわえては隣の木にも飛んでゆく。ヒヨドリが盛大にミカンをた
いらげたあげく隣のトレリスの上で盛大にウンチしているのも見てしまった。スズメ達も
朝、餌をだすのが遅れると早くメシメシと言わんばかりに鳴きたてていた。食べている時
もけんかして文字通りピーチクパーチクうるさい。世田谷の町中の庭でもこんなにいろい
ろの野鳥が郊外よりも餌台に寄ってくると喜んではいられなかったのだ。私が業務拡大を
しすぎたこともあるが、結局、町中の鳥達は周辺の自然環境が少なくなった分餌台のある
所に頼らざるをえなくなってきていたのだ。
 電話のあった日の夕方、私は。“小鳥レストラン松原”の閉店を決めた。常連客だった
鳥達には突然の閉店の理由がわからないから数日の間スズメ達は屋根の上に並んで頭をひ
ねったりして鳴いていた。シジュウカラやメジロは枝から枝へ飛び移って何か探し物をし
ているようだった。私は「ごめんね、仕方なかったのよ」と心の中で言う以外になかった。
何だか庭ががらんとしてしまった。
 庭には椿や千両万両くちなしなど植えてあるので、それからの冬は時おりメジロやヒヨ
ドリが蜜を吸ったり実をついばみに来たり、シジュウカラが虫を探すのか花みずきの枝の
間を飛び移ったりするのを目にすることはある。でももうカワラヒワの黄もジョウビタキ
の紅もツグミの賢げな姿も見ることはない。


 今年の六月、隣家の奥さんが庭にいた夫にフェンス越しに柏葉あじさいが花をつけたの
で見に来ませんかと声をかけてきたというので私も一緒に初めて自慢の庭を訪ねた。中庭
風になっていて株立ちの青ダモが茂りしゃれた鋳物製のテーブルと椅子が置いてあった。
南側のフェンス沿いにはトレリスが並べられしゃくなげやぎぼうしやあじさいが全てきち
んと整えられて植えてあった。「居ながらにして高原気分なんですよ」と奥さんは嬉しそ
うだった。弁護士志望の息子さんはもう家にいないということだった。朝早くスズメ達に
悩まされなくなったおかげで試験に合格したのかどうかは聞きもらした。フェンス越しに
眺めたうちの庭は野趣豊かといえばいえるが荒れているといえばいえる庭だった。隣から
帰る途中も帰って来てからも私は何だかとても腹立たしく少し泣きたい気分だった。
 “斜光”では中島勝彦さんの自然観察の文や挿絵にいつも感嘆しつつ楽しませていただ
いている。世田谷の町中での小鳥レストランは閉じざるをえなかったが今後はもっと大き
な自然の中で鳥達に出会いたい。白鳥や雁の北帰行も見送ってみたい。鶴の群れが上昇気
流をつかみV字編隊をなして真っ青な空を背景にヒマラヤの白い峰峰を越えてゆく姿をテ
レビでみたことがある。私がこれに出会うのは心の中でだけだ。心の中の映像でもすばら
しい。気持が高く高くどこまでも昇って広い天空のかなたに吸い込まれてゆくようだ。

(斜光7号 2002 「近頃のあれやこれや」シリーズより)

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ある日、突然、ブルガリア

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月31日(土)13時11分32秒
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       ある日、突然、ブルガリア




    ブルガリア・ソフィアヘ

 昨年の10月中旬のある日、いつもより早く帰宅した夫が夕食の支度をしている私のと
ころに来ると、ちょつと興奮した顔で「ブルガリアに行くって話、どう思う?」と言いま
した。これが我が家に、突然、ブルガリアという言葉が飛び込んで来た最初の日でした。
 ブルガリアときいて、ほとんどの人が示す反応は次の三つです。
 「ブルガリアってヨ‐グルトの国よね。」 「ずいぶん昔、赤と白の民族衣装をつけた
元気そうな娘さんのラベルのジャムを買ったことがあるわ。」「冬はとても寒いんでしょ」
 私も似たり寄ったりでした。夫などそういえはこんな歌があったと「黒き瞳いずこ、我
が故郷いずこ、ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方……」と歌い出す有り様。 これは
“バルカンの星の下”という、第二次世界大戦末期ブルガリア国境に進撃したソヴィエト
兵の望郷の歌なのですが、バルカンの星の下とか遠き彼方なんていう感傷的な言葉が好き
な私としては、さっそく「あら、いいじやない、行きましょうよ。」ということになりま
した。
 でも、返事するは易し、行うは難しで、それから12月22日の出発までは大変でした。
 失のブルガリア派遣の目的は国際原子力交流事業(科学技術庁国際協力計画)として、
ブルガリアの原子力機関と技術交流を行うことです。期間は三ヵ月間です。この計画の実
施はブルガリアでは初めてのことです。(現在リトアニアとウクライナでも行われていま
す)三ヶ月というとそれほど長い期間のようには思えませんが、いざ行くとなるとブルガ
リアでの仕事と生活の準備に加えて留守中の手配もあります。まして私達の世代は高齢の
親を抱えています。我が家には持病持ちのワンチャッもいます。息もつかせぬ面白さとい
う表現がありますが私達は息もつかせぬ多事多忙さで最後には過労で手が震えて字が書け
ないほどでした。それでもなんとかいろいろの困難を乗り越えて、12月22日JALの座席
に座った時のほっとした気分は忘れられません。サービスされるってなんて気持ちがいい
のでしょう。(温かい食事がおいしかった! JALの佐高関係者の皆様ありがとう)

 ブルガリアの首都ソフィアへは日本からの直行便がないので私達はフランクフルトで一
泊する予定でした。フランクフルトにはたまたよ9月の終わりにも来たことがあったばか
りなので「あの時は紅葉がきれいだったわね。」とか「レンタカーを返すのに右往左往し
たね。」などと思い出話をしたり「明口はいよいよブルガリア到着ね。」などと、先のこ
となどわからぬ身、呑気なものでした。
 フランクフルトからはルフトハンザ航空です。 12月末のフランクフルトは寒々と凍り
ついています。ソフィア行きの待合所に座っていると遥々きたものだなという思いが湧い
てきます。ソフィアまでは2時間の飛行予定です。出発前に少しはブルガリア語をやって
いこうと思ったのですが、開講語学数を誇る大学書林でもブルガリア語の教室は生徒不足
で開講しておらず個人教授は高すぎ、結局、簡単な辞書と会話と文法の本は手に入れたも
ののほとんど時間がとれなかったので何の備えもありませんでした。機内で「今晩は、私
は博田喜美子です。はじめまして、どうぞよろしく」という三つを暗記してそれを覚えて
いるうちに到着してもらわなくてはと思うのにいっこうに着きません。乗務員があわただ
しく行ったり来たり話し合ったりしています。外を見ると灰色です。そのうちアナウンス
があり英語で聞き取れた範囲ではソフィアは濃霧で着陸できない、しばらく旋回して様子
をみるがもし霧が晴れなければフランクフルトへ引き返すとのこと。ええっ、ここまで来
てという感じです。機内もざわざわしています。だって今日は12月23日、クリスマス休暇
でやっと国へ帰る人もいるはずです。ブルガリアで楽しみに待っている人もいるはずです。
私達だってソフィア空港には初めて会ってさっきのブルガリア語で挨拶しなければならな
い通訳と運転手が迎えに来てくれているはずです。
 そのうちに飛行機が高度を下げはじめました。ああ、よかった、ソフィアに降りられる
のだとほっとしてはじめてみるブルガリアの地をよく見ようと窓に顔をこすりつけて下を
眺めました。真暗い中に地上の光がダイヤやルビーやエメラルドのブローチのようにきら
きらと輝いて広がっています。ああ、なんてソフィアつてきれいなのだろう、ここでクリ
スマスを迎えられるなんてなんとすばらしいんだろう、これからの三ヵ月もきっと楽しい
だろうと胸がふくらみます。高度がもっと下がると光が水に映っていちだんときれいです。
光が倍になったように輝いています。あれ、でもソフィアにはこんな大きな河があったか
しら湖があったかしらと思っているうちに飛行機はガタンと着地して滑走路を走りだしま
した。小さな建物の上にマケドニキ・エアポートというネオンがひかっています。どうし
てソフィアーエアポートじゃないのかなと私は不思議がっています。でもまあ無事に着い
たからよかった、例の三つの挨拶もまだ覚えているし……。けれどもいっこうに降りてい
いという指示はでないし乗り込んできた係員と乗務員は何か真剣にやりとりしていし、そ
のうち後ろから乗客がどやどやと前の方へやって来て乗務員と声高にやりあっています。
何だか変です。言葉も英語じゃないので全然わかりません。夫が英語のよくできる乗客の
一人に聞いてやっとここがテサロニキだということはわかりました。でも、テサロニキっ
てどこ? 地図上で示された所をみるとギリシヤ北部の海に面した町でした。ブルガリア
だと思っていたらギリシヤだったのです。宝石の町はソフィアではなかったのです。そし
て飛行機はここで給油だけしてフランクフルトへ引き返すというのです。
 「はじめまして、どうぞよろしく。」もどこかに吹き飛び、ブルガリアは遠き彼方の地
だということをしみじみ味わいながら12月23日深夜のがらんとしたフランクフルト空港に
舞い戻ったのでした。

     
冬にしては珍しく快晴の暖かい日。1997年1月6日 通訳のアネリアさんと。後方がアレキサンダー・ネフスキー寺院

次の日の午後4時時、飛行機は確かにソフィア空港を目指して降下を始めました。眼下に
はどこの空港に降りるときにも見られる風景が広がっています。道路、農地、工場、アパ
ート群、オレンジ色の屋根に白い壁の民家……、でも、どことなくがらんとしています。
機外に出ると間近に山が望めました。あとでそれがソフィアのシンボル、ヴィトシヤ山だ
と知りましたが、佐賀の天山をもっと高く大きくしたどっしりとした山容でソフィア滞在
中の親しい山になりました。
 空港はここが首都の空港かと思わせるようなこじんまりとしたもので、日本の地方空港
でももう少し立派だろうと思ってしまいます。とにかく照明が暗いのです。緊張して入国
審査官の前を通り税関で「ナントカ、カントカ。」と言われたのに「ノー。」と答えたら
すぐ通過でき出迎えの人々の待つロビーで、原子力安全協会の石川部長に通訳のアネリア
さんと運転手のバンチョさんを紹介されて、やっと、暗記した例の挨拶をすると「まあ、
ブルガリア語が上手ですね。」と言われておおいに面目をほどこしました。
 空港内から一歩外に出るとさすがに寒く気温は氷点下16度、雪は20センチ位積もってい
ました。雪景色のソフィアは落ち着いて美しく静かにみえました。
 私達はアパートに移るまでの数日間はグランドホテルーソフィアに泊まることにしてい
ました。ここでの三日間は旅の疲れを癒すどころかかえって増すような快適とはいえない
滞在でしたが、現在のブルガリアの状況を象徴していた数日間だったと今でも忘れ難いも
のがあります。



    グランドホテル・ソフィアで

 何か物事を経験するとき、三日、三ヵ月、三年というのはその経験の節目となってある
まとまった印象を深く刻むものです。三日坊主の代表選手の私は三日というのが最も親し
みがありますが、グランドホテル滞在中のソフィアでの最初の三日間はほんとうに印象深
く1989年まで社会主義体制下にあった東欧の国へ来たのだということを初めて実感しまし
た。
 グランドホテルはブルガリア紹介といえば必ずでてくる高さ60メートルの金色に輝く
ドームを持つバルカン半島最大の寺院、アレキサンドル・ネフスキー寺院や首都ソフィア
の名の由来になった聖ソフィア教会堂のすぐ近くで立地条件もよく共産主義華やかなりし
頃は栄華を誇ったことでしょう。今はたしかに名のとおりグランド(大きい)ですが、雰
囲気すべてが黄昏つつあるというふうです。クリスマスシーズンだからかロビーには金や
銀、赤や緑のアルミホイルで作った造花やモールが飾り付けられていましたが、幼稚園の
クリスマス会でももっときれいにセンスよく飾るだろうと思わせる代物で、それが薄暗い
照明に照らされているのを見たときのもの悲しい気持ちは何故かとても強烈でした。
到着した日はもう疲労困恩しているのでホテルで食事をしようと最上階のレストランへ行
きましたが入ったとたん裏口からまちがって入ったのじゃないかと思いました。入ったと
ころのすぐのテーブルで使用人達がくつろいでお茶を飲みながらおしゃべりしています。
時期が時期だからか時間が早いせいか(といっても7時頃)お客は誰もいません。がらん
としています。ウェイターが脱いでいた上着をあわてて着込んで注文をとりにきました。
 ソフィアのガイドブックによると、グランドホテルには最上階に市内が一望できるパノ
ラマレストランがあると書いてありますが、私は2月はじめに日本から出張してきた方々
とそこで食事をするまで最初の日に行ったレストランがそれだとは知りませんでした。
市内一望のレストランはちゃんと別にあるのだと思っていました。
あれがそれだったとは……。
 部屋のカーテンやベッドカバーも花柄のビロードで重厚だけどどこか古色蒼然としてい
ます。次の朝、朝食をとつた食堂、ここもたしかにグランドでした。高い天井どつしりと
したテーブルや肘掛け椅子由緒ありげなサイドボード窓に掛かった紅いビロードのカーテ
ン、ウエイターもグランドで堂々としたからだにお仕着せの白いシャツに黒い服です。
でも、この制服も赤いテーブルクロスの上の白いクロスもどことなくよれっとしています。
 ビュッフェ式なので食べ物のテーブルにいくと並んでいるのは数種類のパン、ハムとチ
ーズ、ゆで卵、きゅうりとトマトの薄切り、シレーネ(山羊の乳からつくる白いチーズ)
がかかったサラダとヨーグルトドレッシング、飲み物は牛乳とハーブ茶とコーヒーそれだ
けです。広いテーブルの上の白い分厚いお皿にがらんとした感じでのせられています。
タンクをひねると出てくるコーヒーも生ぬるく今にも出るのをやめそうです。
 ウエイターもサービスしているとは言い難くカーテンの向こうで新聞を読んでる人もい
ます。お客は私達の他は三、四人。窓の外は灰色の空から雪が降りしきっています。目の
前にみえるビルの窓ガラスのいくつかは割れて空洞のように黒くがらんとしています。
 ほんの前日のフランクフルトシェラトンホテルの朝食を思い出すと、飛行時間はたった
2時間だけどここは地理的に遠きブルガリア、ドナウの彼方だけではなく、ヨーロッパで
も東側の国へ、半世紀近くにわたった社会主義体制が崩壊し民主化の気分を味わうととも
に経済崩壊にもさらされている東側の一国ブルガリアへ来たのだということが強く身にし
みました。
 しかし、一寸先はなにがおこるかわからぬ世界、これからもっと厳しい大激動がブルガ
リアを見舞うこともしらずに、1996年はソフィアの冬の空をみながら暮れていったので
した。

(斜光2号 1997)

9

 

うつうつぼちぼち

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月26日(月)10時52分18秒
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            うつうつぼちぼち




 私は子供の頃、四歳年上の兄に「天邪鬼」とよくからかわれていた。
 その時は「いやーん、あまのじやくなんかじやない」と泣き声とともに抗議していた。
本当は天邪鬼の意味もよくわからなかったがけんかになった時に言われるのだから良い意
味じゃないことだけはわかっていた。
 この言葉には久しく遠ざかっていたのだが、長ずるに及んで最近自ら私は本当に天邪鬼
じやないかと思うようになった。どういう性格の人間がそういわれるかほぼ想像がつくが
念のため広辞苑で調ぺてみた。

①昔話に出てくる悪者。人に逆らい、大の邪魔をする。
②わざと人の言にさからって、片意地を通す者。
③仁王や四天王が踏まえている小鬼。

 なるほど、そうだったのか。やろうと言えばやらないという、右といえば左という。世
の中、変わらなければならないという大合唱になるとそう簡単に変われるの、変わってど
うするのかと思ってしまう。中高年は生きがいをみつけ元気を与え元気をもらい感動を与
え感動をもらっていきいきわくわく生きなければならないという記事や雑誌が増えてきて
くると齢六十、七十のひと達を煽りたて、ご当人達も急(せ)かされてあっち行きこっ
ち行きあれしてこれしていったいどうするのと言いたくなってしまう。
 「天邪鬼」の解釈の中にある「人の邪魔をする」ほどまでの勇気は私には無いが、「人
の言に逆らい…」というところまでは確かに私にあてはまる。しかもこれまで仁王像や四
天王像の上の像の筋骨隆々、憤怒の表情にも確かに感心してきたが、むしろ私は下に踏ん
づけられている小鬼達の「痛てて」の表情や「まあしょうがねえや」といった様子に魅か
れてもきた。そうか、縁者だったのか。合点がいった。
 広辞苑を開いたついでに天邪鬼の前後の項目もみてみた。「天の…」というのだから偉
そうな天孫関係者が多い。天邪鬼なんてまったくの鬼っ子だ。

 そうだ、鬼つ子なら自分の心に住む鬼をみつめてみよう。
 これならあっちこっち出かけたりあれこれ物を買ったり元気や感動をあげたりもらった
りしなくてもひとりでじっとしてできる。
 私は子供の頃からの正統の天邪鬼だ。
 わくわくどきどきわあわあばたばたいきいきがたがたの世の動きに逆らってうつうつぼ
ちぼちと生(い)こう。

斜光6号 2001 「近頃のあれやこれや」シリーズより

8

 

百人一首

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月26日(月)10時50分7秒
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                百人一首




 食東京では都議選たけなわ・外を候補者の名前を大声で連呼しながら選挙力-が通る。
 ところで、私はラジオ党。朝七時のニュースに始まり家にいる時は何かしながらラジオ
を聴いている。聴くのはNHK第一のみ。これがなかなかおもしろい。ニュースや音楽や
天気予報をはさみながらの「いきいき倶楽部」ではいろいろな分野の人達の話を聞く。
 これまでの話で印象に残っているのは輪島塗の塗師、天然酵母パンの工房を開いた女性
のパン職人、佃人農家の企業化を計り仲問を集めドイツまで視察にいった農家の女性、作
家の沢木耕太郎、「鳥が教えてくれた空」を書いた三宮麻由子などの方々の話である。
それぞれ自分の生き方を自分の言葉で語っていてとても感銘深かった。
 最近聞いたなかからお勧めしたいことがあるので今日はそれを書いてみよう。
 まず皆さまにお聞きしたい。
「正月に百人一首のかるた取りをしたことがありますか。今年の正月はどうでしたか。」
 インタビューに答えていたのはかるたクイーン十一連覇中の渡辺ふみえという方だっ
た。これを聴いていて、私は自分自身の百人一首とのつきあいを思い浮かべた。
 我が家では毎年正月の三ヶ日の中の一日、集まったひとたちでかるたをやるのが恒例だ。
これがいつ始まったのかはっきりしないが博田のほうでも私の実家の辻のほうでも子供の
頃からやっていたので結婚してからも正月の年中行事でやっている。
 私が佐賀に住んでいた頃(もう四、五十年前になるのか)まだ娯楽が少なかった。時間
はたっぷりあった。
 辻の家は兄妹が多かったし母が勝負事が好きだったので、上、日の夜は家庭麻雀をした
り(そういえば小六の頃から始めたなあ)トランプのツー・テン・ジャックをしたりして
いた。正月は百人一首だ。
 麻雀やトランプの時はたいてい最後は「○○がずるしたあ」という誰かの泣き声と「け
んかするならもう今後一切やめです」という母の叱る声で幕が閉じたが次の週になるとま
た同じ事を繰り返していた。
 そこへゆくと百人一首の時はさすがに優雅。兄妹三人づつ二組に分かれそれに祖母と父
か母のどちらかが加わる。読み手はたいてい父たった。だがこの父の読み方が子供達にと
って難物だった。さっさと一句、上下続けて読んでくれれば早く探してとれるのに、例え
ば「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」という句でも
「あまつかぜー くものかよひじー ふきとぢよー をとめのすがたー しばしとどめむー」
と自分の声にうつとりしたごとく朗々と読むので上の句の「天つ風・・・」を聞いただけ
でとれる祖母をはじめとした大きなひとたちに先を越されてしまう。何故かこの句は子供
達のお気に入りなっていた。それだけに取れそうだとねらいをつけていた札を早々と取ら
れてしまう口惜しさがあった。子供達だけでやった時でも父の声につられてテンポが遅く
なって後れをとる。でも百人一首の時は誰かが一、二枚しかとれなくても泣き声はなかっ
た。さすがに教養の差を納得したのだろう。
 今では父はもう声を発することもなくべッドの上にいる。

 秋深まる頃になると私は正月のかるた取りに備えて百人一首の勉強をしようと「絶妙し
なやかな鑑賞。斬新、流麗なイラスト。現代に蘇る魅力の歌絵巻」という帯文句にひかれ
て買った田辺聖子の「小倉百人一首」を机の上に置く。田辺さんの解説だけあってなかな
かおもしろい。だが実戦には役立たない。相変わらず持句の数は増えないし、上下つづけ
ないと全句でてこない。
 かるたクイーン渡辺さんは最初の一言聞いただけでとれるとか。私の努力がたりないの
はもちろんだがこういう暗記する暗誦するというのは若い頃にやらないと効果がないのだ
ろう。八十八歳の義母はいまでも喜んで加わり昔取った杵柄というのか一位は無理として
も二、三位を占めて得意顔をしている。しかし去年はあまり張り切りすぎて相手側の札に
も飛びかからんばかりにとったので腰を痛めて次の日から整形外科通いになったのはいか
がなものか・・・。
 ある年のかるた会に娘の友人が加わった。和歌の知識は十分あると思われるが家族が少
なくてこういう家族かるた会の経験がなかったせいかなかなかとれない。なんとなく皆が
ハラハラした気分になりかかっていた時、一枚とれた。思わず一斉に拍手したらにっこり
した。いつも静かで気難しそうにみえたひとだっただけに、そのにっこりは忘れられない
顔だった。
 渡辺さんもこういう主旨の話をしていた。「歌が主体の文字だけのゲーム(試合)は世
界でも類のないものです。民族の大きな文化遺産です。小倉百人一首のかるた取りを家族
や仲間うちで楽しむ機会は減ってきているようです。意味はわからなくても百人一首を小
さい頃から暗誦して慣れ親しむのは古典が決して古い時代のものではないということに気
がつくきっかけになるのではないでしょうか。テレビゲームなどの流行る現代だからこそ
ぜひおすすめしたいかるた取りです」と。
 記憶力の減退をなげきつつも百人一首をひもどき、若い頃には味わえなかった歌の妙味
を発見し、いつの日か佐高十一回生かるた取り大会でも開いてみよう。
 私達も今年、来年には還暦をむかえる年代。家で過ごす時間も多くなる。
ぜひ、ラジオ党に入党されたし。

斜光6号 2001 「近頃のあれやこれや」シリーズより

8

 

遺稿集「金木犀」

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月26日(月)10時39分17秒
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            遺稿集「金木犀」





 先日、小宮久美さんから一冊の本が送られてきた。樋渡エイ遺稿集「金木犀」だった。
久美さんの母上が川柳をやっていらっしやることは時折の話題の中でいくらか知っていた
し、五七忌明けの挨拶状に添えられた句のいくつかに身近な自然や日常経験するほんのち
ょっとした心の動き行動がうつしとられていて思わず笑ってしまったこともあった。特に
そのなかの句。“楠若葉萌えて親葉は散り急ぐ”という句は何気ない句だけれども楠好き
の私としてはおおいに気に入り、犬の散歩で訪れる公園の大きな楠が五月になると樹上は
若葉が照り輝きその幹の回りには枯れ枯れになった葉が散る風景をみるといつもその句が
頭に浮かんできた。それまでは五月の楠の木のそばを通ると佐高校歌の第一節「楠の青葉
を吹きならし海越え来る朝の風、夕べはあおぐ天山の山なみさして雲かえる」が口をつい
て出てきて気分は壮快五月晴れになっていた。今でもこの一節は好きだが一本の楠をとら
える川柳の見方もおもしろいと思った。まあその程度だった。
 ところが今度送られてきた句集を読んで。“無駄に見えた趣味に余生を助けられ”どこ
ろではないひとりの女性の人生の喜怒哀楽が短い句のひとつひとつに読み込まれているの
に心を打たれた。
 しかもその詠者が久美さんの母上であり、かなり前にしろおたがいに見知っているとな
ればなおさらだった。
本の後ろに記された略歴ははじめて知ることばかりだった。
 多分なくなる前の年だったと思うが江口裕子さんが上京して来た時、久美さんの家で三
人でおしべべりしていた。たまたま母上から電話がかかって裕子さんも私も電話にでてち
ょっと話した。後で久美さんから「母がお二人の声を久しぶりに聞いてとても喜んでいた」
ときいた。私はその時ただそんなものかなと聞き流していた。
 だいたいひとは自分の年代以外の歳のひとの気持に無関心というか理解がないというか
いやそれ以上にそのひとたちが感情や気持ちをもっているなんてほとんど重い及ばないの
ではないだろうか。


  十代の時、親や学校の先生や自分の回りの大人が人生の苦渋をかみしめながら生きてる
なんてあまり思わなかった。自分の気持ちさえあつかいかねていた。ただ彼らは自分を圧
えつけ立ちはだかる壁のように感じていた。
 二十代の時、職場の課長や部長が日々喜びや悲しみや苦しさを味わいながらくらしてい
るとは思わなかった。ただのオッサン達だと思っていた。
 人生の諸々を体験し人間の感情の奥深さを知るようになった六十代の人口にいる今でさ
え八十代、九十代のひとの感じるものはわからない。実際、隣に住む八十八歳の義母の家
事や通院の手助けはできても「やりたいと思っても体がついていかない、このつらい気持
ちをもっと理解してほしい。夜、淋しくて不安でたまらない、この気持ちをわかってほし
い」と言われるがこれがなかなか難しい。本当にわかった時には今度は私が子供達に訴え
ている番になっているのだろう。三年前に八十歳で亡くなった私の母は最期の頃はものも
言わずただじっと天井をみつめていた。いったい何を思い何を考えていたのだろうと思う
と涙がこみあげてくる。
 上の年代だけでなく下の年代のひとたちの気持も自分が通ってきた道とはいえわかって
いるとは言い難い。第一自分自身がうるさい無理解の親で、人生の喜怒哀楽を感じそうも
ない鈍感なオバサンと思われている年代となっている。


 久美さんの母上の遺稿集を読んでの一番の感銘はわたしの母と同世代で(はじめて知っ
たが母と同じ大正六年生れ)同じ時代と場所を共に生きたかたの見方、感じ方を身近に感
じられたことだった。本の添え状に久美さんが「母の見方、感じ方を川柳を通じて再発見、
母とより深く対話でき慰められました」と記しているのを読み本当にそうだろうと思い羨
ましくもあった。
 この遺稿集は昭和四十二年母上が五十歳の時に兄の北島常一氏が箭師をつとめていた川
柳教室に“兄妹愛から川柳に引きずられ”入門した時から八十歳でなくなるまでの三十年
間に書き留めた五千句余りの中から三百句ばかりを集め年毎に編んだものだ。

  ためらいの花絨毯を踏む小道
  店頭の野菜の私語は多国籍
などの自然詠もあるがやはり川柳の本領は人情の機微を詠んだものの中にある。

  化粧室の噂紅筆止めて聞き
  見送りへ間があきすぎた目のやり場
  遅刻して苦手な人の横に座し
  貴女だけの秘密がすぐに一回り
  ふるさとのポスター旅で見て嬉し
これらは誰も経験のあることばかり。

次のは妻の身ならば全て覚えのあることばかり。
  足音を聞いて安心怒り出し
  黙秘権背中に見せて針仕事
  庭鋏冴えて怒りが抜けてゆく
  マージヤンヘ仕事の都合すぐにつき
  夫も子も送り出したらわが天下
  聞き飽きた夫の持論も黄昏れる

まだ未知の体験だけどいずれはこうなるのか。
  喜寿と古稀山の紅葉に溶けて立つ

六、七十に詠まれた句は私にとってはそんなに遠くない先のことだが八十八歳の義母にと
っては思いはもっともっと深いものなのだろう。
  ばあさんと言われ不服と肯定と
  今決めてまた迷い出すケセラセラ
  肩パッド入れて七十腰のばす
  老人給食頼む安堵と寂しさと
  散る花の明るさほしいわが余生
  淋しくて土鈴振ってみる夜長

幼くして満州で亡くされた次女を偲んでの句は悲しい゜
  かっこうが鳴いて子の忌が巡り来る
  生きてればあの年頃かふり返る

 この遺稿集を読んでもっとも印象深く感じ入ったのは次のような句の教々である、
  あの人はとこにいるかと盆踊り
  糸屑がついているわとふりむかせ
  あの人の動く視線にいる女
  手の届く範囲を女逃げて待ち
  ラブレター女一通だけ残し
  いい人を心の部屋に住みつかせ
  落ち葉掻き集めて過去の愛を焼く
  わが炎苺つぶしてやっと耐え
  積む雪に消したい過去の罪いくつ
  ときめきは今もひこ星に似た賀状
  あの人のその後を祈る老いてなお

「あら、恥ずかしか、句の上で遊んだだけなのに」と母上に言われるかもしれないと久美
さんは書いているが、こういう句があるからこそこの遺稿集は私の心に深く刻まれた。
 本の最期のページに母上の小さな写真がのっている。顔の骨格が久美さんに似た方だ。
(電話で久美さんにそう言ったら「私はまだそんなに歳とっとらんよ」と怒られたが)
 こういう一句もあった。
 “おだやかな夕暮れ浄土らしい雲”
 つい先頃、九十三歳になる父が肺炎で入院しいつ何かあってもおかしくない状態になっ
た。病院からの帰り西の空に落ちていく陽に雲の端が輝きああ浄土というところはああい
うところなのかと見入った。陽がもう一度雲の中から顔を出したら父はもち直すかもしれ
ないと祈るように見ていると一瞬陽の光が一条雲間から射しすぐまた雲に隠れやがて薄紫
色の夕暮れに変わっていった。その時のことを思いだした。

 親が亡くなるたびにあの世とこの世の境界がだんだんぼやけてきて全部逝ってしまうと
自分達が最前線に押し出された感じがするようになると、友人や身近かな人達からきくよ
うになった。七年前に義父が三年前に母が亡くなり、そして父もあの世とこの世の薄明り
の世界を漂っているような日々なのでそういう心もとない気分を味わう時がある。
 ご多分にもれず私の家でも嫁姑の軋樫があるが姑が最期の手強い盾になってくれている
と思えばあだやおろそかにできないわけだ。でも最期の砦だけあってこれがすごく強固な
のだ。
 最期の句は
 “天の川仰いで一家夕涼み“


 樋渡エイ様
  楠の若葉の中に、ほのかな香りを漂わせる金木犀の花の中に、広い天空の中に、そし
て心の奥深いところで紡がれた生命の句の中にいつもあなたの姿を偲びます。

斜光6号 2001 「近頃のあれやこれや」シリーズより

8

 

結(ゆい)・結ぶということ

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月25日(日)20時00分18秒
編集済
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        結(ゆい)・結ぶということ




 五月一日、長女のところに赤ちゃんが生まれた。男の子で「結文(ゆいふみ)」と名付
けられた。「個性的ね」「ユニークな名前だなあ」「どんな字をかくの」。「何というお
名前?」という問いの答えに返って来る反応だ。 私の兄など「奥深い名前だなあ」と宣
った、ああなるほど、奥深いというのがぴったりかもしれない。
 わたしも最初聞いた時はちょっと変わった、発音しにくい名前だと思った。娘の講釈に
よると。
"結"という漢字はなかなか意味深い良い字で自分達に関係が深いという。「"結"は糸という
偏と吉という旁(つくり)で成り立っている。自分は刺繍縫い物など糸を使う手仕凛が大
好きだ。お祖父(じい)ちゃまの名前は吉太郎だからその両方でできた"結"という字はと
てもいいと思う。"結"の意味も、
"結"と読めば農作業などで互いに労力を出しあって助けあうこと、あるいはその仲間とい
うことだし、結ぶと読めば何かと何かをくくったりつなげたりまとまったりすることを意
味する。"文"は文字どおり、文学文化文明など広大無辺の意味を含む有難い字だ。文を結
ぶという名前、これほど人と人を、文明と文明を結ぶネットワーク時代の現代を象徴し、
はたまた果てしない未来を予感させるものはない。お父さんの名前邦(くに)に忠(ちゅ
う)〔忠邦〕や、お母さんの名前喜ぶ美しい〔喜美子〕などは名付けた人の個人的願望の
表出で、単純な発想だ」というわけだ。
 赤ちゃんの名前を聞いてくださった方々に娘の講釈の受け売りをすると、皆ふ-んと感
心したような、でもいまひとつ理解できない顔をなさる。奥深さはなかなかわからないも
のなのだ。
 私は生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて、名前の奥深さに感心するよりも誕生の奥深い
神秘にうたれる。五十センチ、三キロの小さい身体(からだ)で何もかもがちっちゃくき
ちんとそろっている。さっきまで母親の胎内にいたのに今はこの世に生まれて手足をばた
つかせ泣きながら乳房を探している。

 赤ちゃんに対而した数日後、病院に父を見舞って、手を握り頭をなでながら「江里子の
ところに男の子が生まれたの、とってもかわいい赤ちゃん、結文(ゆいふみ)という名前
なのよ。お父様の吉が入っている字を選んだそうよ。結文くんをずっとずっと守ってあげ
てね」とくりかえした。経管栄養の管をつけた父はこのところもう目を開くこともあまり
なく、呼びかけにもほとんど何の反応もしなくなっていた。だがこの時はかすかにかすか
に表情がやわらぎ、父の中の何かに声が届いたような気がした。曾孫が二人になったこと
を伝えたいという私の願いがそう思わせたのかもしれない。わかったのかどうか定かでは
なかった。けれども父の身休にふれながらそう語りかけていると、父と私と娘と生まれた
ばかりの赤ちゃんが結ばれている、つながっていると強く感じた。命はこうしてつながっ
てゆくのだ。涙がこみあげてきた。
 六月十七日夕刻、あと十日で九十五歳の誕生日を前にして父は逝った。永い間走り続け
た機関車が終着駅に着き、徐々にひとつずつその動きを止めてゆくような最期だった。悲
しかったがとりすがって泣くような悲しさではなかった。これでいいのだという悲しさだ
った。
 結文をみ、父をみると、"生まれいづるもりあれば死するもりもあり"という生命(いの
ち)の大きな輪を素直に受容する気持ちになる。私もその輪の中にいること、やがて死す
べき道程の途上にあるということをしみじみと実感する。親の死はふだんは忘れているが
何か大事な大きなものを感じさせ教えてくれる。

 母は一九九八年三月になくなった。その年の秋三ヶ月をブルガリアのソフィアで過ごし
た。借りたアパートの窓いっぱいに大きな菩提樹が枝を広げていた。住み初めた八月末は
まだ緑だった葉が季節が進むにつれ黄色が混じりだし、やがて樹全体が真黄色になりそれ
が秋の陽を浴びて金色に輝くようになった。それは静かな哀しい澄き通ったような金色の
輝きだった。秋の風とともに葉が散りだした。強い風が吹くと窓の外をたくさんの黄色い
蝶が空高く舞うようだった。冷たい雨に打たれて落ちゆく葉もあった。十月終わりになる
と黒い枝が目立ち、葉も透け透けになり、一枚一枚枝を離れてゆくのがよくみえるように
なった。十一月末アパートを出る時、樹には一枚のはもなく太い幹と枝を広げていた。
  私はみることはないが、この樹は冬の寒さの中にすくっと立ち、春には芽吹いて葉を広
げ香りのよい花をつけ、夏には緑に包まれ、やがてまた黄金の秋をむかえるのだろう。
 春に母をなくしたせいか、この大きな菩提樹を毎日間近にしみじみとみていた。人間の
生と死もこのようなものではないか、大きな自然の中にあるものだと思うと、気持ちが落
ち着きとても慰められた。
 とりわけ胸に沁みる菩提樹の秋の姿だった。

 この春、NHKラジオ朗読の時間に志村季世恵というセラピストの書いた「いのちのバ
トン」という本が取りあげられた。断片的にしか聴けなかったので取り寄せて読んでみた。
「いのちの誕生と死。どちらも両極端なところに存在しているのに、どこかにつながりが
あることを感じています。死は終わりではない…。死んだあと残された人に宿るあの『い
のちのバトン』をどう説明したらいいのでしょう」という一節には、この一ヶ月半の間に
ごく身近に経験したことを思い合わせ何よりも心を打たれた。
 私達は大きな時間の流れと自然の中で、多くのものと結ばれて生き、そして死んでゆく。
こうはっきり自覚し受容することは、今を生きてゆく力と愛を与えてくれる。
 こり存ヽNHKラジオ朗読の時間に志村季世恵というセラピストの書いたういのちのバ
トンにという本が取
りあげられた、断片的にしか聴けなか、たので取り寄せて読んでみた、ヽいのちの誕生と
死、どちらも両極端な
ところに存在しているのに、どこかにつながりがあることを感じています。死は終わりで
はない…、死んだあ
と残された人に宿るあの『いのちのバトン』をどう説明したらいいのでしょうにという一
節には、この一ヶ月
半の間にごく身近に経験したことを思い合わせ何よりも心を打たれた。
 私達は大きな時間の流れと自然の中で、多くのものと結ばれて生き、そして死んでゆく。
こうはっきり自覚
し受容することは、今を生きてゆく力と愛を与えてくれる。
 結文(ゆいふみ)が小さな手をぎゅっと結んでいる。曾祖父から祖母へ祖母から母親へ
母親から自分へと渡されたバトンをその手に握りしめ、これからの生を生きてゆく。
 結文(ゆいふみ)君、先のわからないこの困難な時代の中で、あなたとあなたの生きる
世界の前途に幸あれと祖母(ばあば)はいつもいつも祈り願っています。

斜光8号 2003 「近頃のあれやこれや」シリーズより

8

 

スタスタと逝ってしまった

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月22日(木)22時08分19秒
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         スタスタと逝ってしまった





 五月九日、高柳増男さんの葬儀があった。
 初夏の陽ざしが暑い日だった。式場への下車駅埼京線指扇(さしおうぎ)駅はどこか田
園的で、えさ運びのつばめが忙しげに飛びまわっていた。
 会場の入り口には彼の業績を称える交響楽団や音楽家の名前がたくさん張り出してあっ
た。それは国内だけでなく海外にも広がっていた。式の中でも彼の音楽業界での活躍を友
人が語った。
 式が終わった後、私は斎場までは行かないのでタクシーを呼んで駅へ出ることにした。
たまたま私と同年配の女の方と相乗りすることになった。「私は高校の時からの友人です」
というと、その方は「高柳先生には娘が大変お世話になりました。先生が才能を見出し励
まし援助してくださったので、娘も留学がかない演奏家として立てるようになりました」
と話した。 御喜 美江(みき みえ)という古典アコーディオン奏者のお母さんだった。
葬場まで二時間以上はかかったそうだから、ただ義理だけでは参列できなかっただろう。
壁に貼られていたたくさんの名前がにわかに実態をもってきた。
 葬儀とは不思議なものだ。主人公はもうこの世を立ち去っているのに、その人の公私に
わたる新しい事実を知ることがある。
 人間は多面体だ。その関係によっていろいろ違った面で他の人と接している。
 古賀和彦さんが追悼文に「兎に角彼はその障害に対して心ない言葉や世間の目に臆する
ことなく果敢に立ち向かい、私達仲間うちで一番音痴だった彼が音楽業界で活躍したのは
意外であり、あまりに身近な付きあい故、彼のすばらしい業績に鈍感だったことを葬儀の
時に感じたのだった」と述懐しているのに心から同感するのだ。しかし、それは別の面で
は真の意味で友人だったということではないだろうか。
 葬儀の時いちばん悲しかったのはダッチャン(的野<井田>久子さん)が基山草スキー
のハイキングの写真を棺に入れた時と、古くからの最も親しい友人達が遺影をじっと見上
げて、最後の別れを告げた時だった。高柳さんが一足先にスタスタと逝ってしまったとい
う事実が胸に迫った。


 彼は癌の告知を受け、十四時間に及ぶ難手術の後、周囲も驚くような回復ぶりを示した。
近藤勝さんからの何枚にもわたるマスオ・レポートやお見舞いに行った友人達からの話で
様子ぶりを知った。私も「どこを切ろうとつなごうとそれでこそ"高柳増男"です。久しぶ
りにマスオさんのスタスタぶりを思い出しました。世界最高のバレエを観に行く日を楽し
みにしています。増男ペースでスタスタとよりいっそうの回復に向かってください」など
と呑気な手紙を書き送ったりしていた。
 でもやがて再発し入退院を繰り返す。私は十二月に板橋の日大病院に見舞った時のこと
が忘れられない。池袋の町はクリスマスの賑わいだった。

 病室のベッドの上の彼は白い髪を短く切り、一回り小さくなってしまったようにみえた
が、表情はどこかすっきりし、何かを突き抜けたような印象を受けた。点滴の器具を引っ
張ってであったが一階の食堂でしばらく話した。
  「なんだか仙人か悟りを開いたお坊さんのように見えるね」
 「うん、仕事のあれこれのこと踏ん切りつけたらすっきりした」
 「何か困ったことない?」
 「ない」
 「一人暮らしだけど退院したらどうするの?」
 「慣れているから大丈夫だ」
 「何か食べたいものある?」
 「"鍋"だなあ」
エレベーターの前で上階に帰る彼と別れた。淡々としていた。

 彼の遺稿を読み、私の知る限りの彼の生を考えると、突然、彼はとても勇気ある人だっ
たという思いがこみあげてきた。これまでただの一度も彼と勇気という言葉を結びつけた
ことなどなかった。でも今は言える。高柳増男は勇気ある人だった。彼の一生は勇気ある
一生だったと。
 これからも高校の時からの友人達が集まったら必ず彼のことが話の種になり、皆でマス
オ振りを思い出して笑い合ったり、悪口を言いあったりするだろう。
 マスオさん、そちらでくしゃんくしゃんしても風邪じゃなかけんね。こちらで"鍋"を囲
みながら噂しよったとけんね。
 いなくても居る。見えなくても見えていると皆知っている。

斜光8号 2003

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悲しい小鳥/象さん 2004

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月22日(木)19時33分39秒
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            悲しい小鳥/象さん




悲しい小鳥

 NHKラジオの特派員報告でイスラエルの占領下にあるガザからこういう報告があっ
た。
 ガザのパレスチナ人難民キャンプで、小鳥を飼うのがはやっている。小遣い稼ぎのため
子供たちが野原に小鳥を取りに行く。監視所のイスラエル兵に射たれ、怪我をしたり死亡
したりする子供がいる。子供たちも悲しい。自分達もフェンスの中に閉じ込められながら、
籠の中の小鳥に慰めをみつけなければ難民たちも悲しい。カザルスの『鳥』は「ピースピ
ース」と囀りながらカタロニアの青い空を飛んだのに、ガザの小鳥たちは広い空も知らず
平和の歌も歌わない。





象さん、象さん、お鼻が長いのね

 これもラジオから聞いたこと。
 「象さん、象さん、お鼻が長いのね。そうよ、母さんも長いのよ」。誰でも知っている
この童謡、単純極まりない歌と思えるが、心理カウンセラー諸富よしひこ氏によると、な
かなか深遠な内容なのだという。これを歌う幼児たちは、母親との一体感・安心感を感じ
るのだという。「お母さんもそうなのよ」と受け入れることで、親子関係はずいぶんうま
くゆくという。心理カウンセラーって何にでもうまい理屈を考えつくもんだなあ。確かに
そうだ。「どうしてこんなにだらしがないんでしょう」「どうしてこんなにグズなのかし
ら」「どうしてこんなことができないの」と子供に腹をたてるたびに、「ああ、母さんも
そうなのよ」と思いなおせば腹の虫もおさまる。
 童謡の中に真理あり。

斜光9号 2004 「近頃のあれやこれや」シリーズより

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セピア色のオリンピック 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月22日(木)19時19分34秒
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        セピア色のオリンピック 





 今年は夏のオリンピック年(イヤー)
 オリンピック発祥の地ギリシャでの開催とあってひときわ関心も高まる。
 開幕まであと二ヶ月余り。代表選手も次々と決まり、アテネからシドニーに運ばれた聖
火は六月六日東京都心をリレーされた。これから五つの大陸のオリンピックゆかりの地を
巡りながら、世界中の人々の手から手にと渡され、八月十三日のアテネの聖火台に燃え輝
く。どんなドラマがギリシャの地で繰り広げられるのだろう。代表に選ばれた人達は今、
どんな思いでその日に備えているのだろう。
 四年に一度世界中から多勢の選手が集い競い合い、それがまた世界中にテレビ中継され
るオリンピック大会は、その時代の姿を映し様々な思いを残す。日本人にとって一九六四
年の東京大会は日本で初めて開かれたオリンピックであり、あの大会を知る日本人の心に
深い印象を刻み込んだことだろう。特に私にとっては特別のオリンピックだ。

 六四年の三月に東京大会組織委員会事務局の職員採用試験を受け、四月から選手村に配
属されて働いた。活気と熱気と刺激に満ちた経験だった。あれからもう四十年の歳月がた
ってしまった。オリンピック大会が開催されるたびに、テレビで『思い出のオリンピック』
などというので東京大会のフィルムが放映されることがある。子供達に「お母さんはあの
時選手村で働いていたのよ。アベベと握手したこともあるのよ」と自慢しても、彼らはべ
つに感心もせず「アベベって誰?」という顔をしている。確かにあの時の東京の空はガラ
ンとして広く、敗戦から二十年、東京大会を成功させ再び世界に打って出るという意気込
みで一丸となっていた選手たちや国民の熱気も、四十年という茫々たる時のかなたに吸い
込まれてゆくようだ。もはやセピア色のオリンピック大会だ。
だが、時の流れとともにセピア色に霞んでゆく記憶の中にも、何かにつけ濃く強く思い
出される人や出来事がある。私にとって、オリンピック東京大会でのそれは、アベベ・ビ
キラと円谷幸吉二人のマラソン選手と彼らが国立競技場でみせたゴールの時の姿だ。
 オリンピック史上初めてのマラソン二連覇をかけて、ローマ大会の「裸足の英雄」アベ
ベがトップでゲートに走りこんで来た時に湧き起こった大歓声と拍手、少しうつむきかげ
んだが手足を機械のように動かし苦しげな様子などみせずに黙々と走り、ゴール直前で両
手をちょっと挙げてテープを切り、すぐ芝生に寝転んで足を上げ身体を曲げて整理体操を
始めたアベベ。苦しげに走る円谷、追いすがるヒートリー、ゴールを目の前にして円谷が
ヒートリーに抜かれた時にあがった何とも形容しようのないどよめき、ほんとうに何もか
も燃焼しつくしたようにゴールする円谷。表彰台のアベベ・ヒートリー・円谷の三選手。
あまり表情も変えずに静かに両手を挙げて七万の観客に答えるアベベ、身体をきちんと三
十度ほどに折ってメダルを受ける円谷。この日のことは今でも鮮明に蘇る。
 そしてその後、アベベと円谷を襲った悲劇的な運命を知った後では、この表彰台の写真
をみると、栄光のはかなさなどという月並な言葉では表現できない、哀切な痛ましさを感
じずにはいられない。
 私はアベベに会ったことがある。選手村のエチオピア宿舎の前の芝生で握手してサイン
をもらった。ヨガの行者のような風貌とか走る哲人とかいわれていたので近寄り難い人か
と思ったがそんなことはなかった。風格のある立派な顔立ちで、ほっそりしているが靜か
でとても強靭な感じがした。 いっしょに行った女子村の同僚が日章旗にサインを頼むと
「私は皇帝の親衛隊の兵士なので国旗にはサインできない」と答えたのが印象深かった。

          
            アベベと握手する著者

 その後、私がアベベに関して知ったことは悲しいことばかりだった。六八年のメキシコ
大会で三連覇を目指したが途中で棄権した。六九年に自動車事故で重傷を負い、下半身不
随になって車椅子の生活になった。そして七三年、四十一歳で死去した。ロンドンの病院
で二本の平行棒につかまっている姿や、顔がいくらかふとり黒々としたヒゲをはやしたア
ベベの車椅子の姿を新聞やテレビでみた時は、かつて輝いていた時の姿を一度でも間近に
知っているだけにとても衝撃を受けた。なんて痛ましいことなのだろうと思った。アベベ
はどんな思いであの歳月を過ごしたのだろう。
 アベベとともに東京大会で表彰台に立った円谷は、メキシコ大会が開催される年の一月
にカミソリ自殺を遂げた。二十八歳だった。新聞に掲載された父母や兄姉にあてた貴書を
読んだ時は、泣けて仕方がなかった。
「父上様、母上様、三日ととろ美味しうございました。干し柿、モチも美味しうございま
 した」にはじまり、
「すし、ブドウ酒、リンゴ、しそめし、南ばん漬け、プドウ液、養命酒、モンゴいか美味
 しうございました」と兄姉それぞれに食べ物の礼を述べ、最後に、
「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れてしまって走れません。何卒お許し下さい」
  と両親に許しを乞い、
「幸吉は父上様母上様の側で暮らしとうございました」と書いてあった。
  そしてもう一枚は自衛隊体育学校の校長や教官宛てで、
「済みません、相済みません」と侘び、
「メキシコオリンピックのご成功を祈り上げます」とあった。
なんという遺書だろう。人の世にはなんでこんなことがおきなくてはならないのだろう。

 東京大会から四十年、アベベが逝ってから三十年近くになり、その時々に鮮明だった記
憶も時の流れの中に飲み込まれ次第に薄らいでゆく。でも今年はオリンピック東京大会の
ことがとりわけいろいろと思い出される。女子バレーの活躍で「東洋の魔女」という言葉
が蘇り、重量挙げの三宅義信にとても似た若者(姪)が代表に選ばれ、東京を聖火リレー
が走ったりと、古い記憶を呼びさますことが多い。去年父もなくなり両親の住んでいたマ
ンションを整理したことも、過ぎ去った日々を様々に思い出させた。久しぶりにそれこそ
四十年ぶりに選手村で撮った写真をとりだすと、霧の中に薄ぼんやりとみえていたものが
風に払われて現れるように、様々なことがつい最近のことのようにはっきりとしてきた。
 旧赤坂離宮をバックに女子村の村長を務めた貞閑(さだか)さんを中心に、噴水の前に
並んでいる選手村本部の面々。大会期間中は泊まり込みもあり、それこそ寝食をともにし
た女子村のメンバー。皆若く、輝いていた。
 朝日新聞社の『’64東京オリンピック』という分厚い写真集も本棚の飾りになってい
ただけだったが、今度初めて拡げてながめてみた。あの時の色、音、声、空気。闘志、歓
喜と落胆。全てが鮮やかに蘇ってきた。あの時の全てのドラマがつまっている写真集だ。
こんなにすばらしい写真集だと思ってもみなかった。それにしても闘っているスポーツ選
手ってなんと美しいのだろう。
 セピア色の世界の出来事だと思っていたことがまるで昨日のことのように立ち戻ってく
るにつれ、とりわけ気にかかっていたアベベと円谷についてもっと知りたいと思った。図
書館で調べると二冊の本がみつかった。どちらも世田谷中央図書館の保存庫から取り寄せ
てもらうのに十日ほどかかった。アベベに関しては山田一廣著『アベベを覚えていますか』、
円谷に関しては青山一郎著『栄光と孤独の彼方へ 円谷幸吉物語』だった。二冊ともとて
もよかた。二人のことがよくわかった。「アベベを覚えていますか」という題に「覚えて
います、よく覚えていますよ。」と答えたかった。
 エチオピアと日本、遠く離れた国で生まれ育ったアベベと円谷が、一九六四年のオリン
ピック東京大会のマラソンで競い合いともに表彰台に立った。その後二人とも、それぞれ
悲劇的な運命の下にこの世から走り去っていった。
 あれから永い歳月が過ぎた。
 しかし、彼らのひたむきな姿は時代を超え国を超え、人々の記憶の中にいつまでも生き
続けるだろう。

斜光9号 2004 「近頃のあれやこれや」シリーズより

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青春のあの日 1991

 投稿者:ナンジー・関  投稿日:2014年 5月21日(水)06時04分26秒
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青春のあの日  1991

              変わらないこと



 来た。まず三井所玲子さんの優しい声で、次は同窓会の様子を伝える佐賀からの牟田洋
子さんの元気な声で、その次は松原典子さんのハスキーヴォイスで、とうとう最後には25
年ぶりの内田忠夫さんの「どがんしとっか」という電話で、原稿催促の電話が来た。7月
末に記念誌係の久富さんからの手紙を見た時は、締切は10月20日、まだ3ヶ月もあるぞ、
ちゃんと名文を書いて送るぞと余裕綽々だった。ところが、その間信じられない位遅れ、
しかも何回も電話をもらいながらまだ書いていない。やらなければと思いながら1日のば
しにする。明日こそ明日こそと明日を信じて生きている。
 ちっとも変わっていない。8月末に夏休みの日記を全部書いた小学生の頃、定期試験の
前日に勉強と称して牟田さんの家の2階に集まり、結局は本来の目的と違う結果となり、
切羽詰まって数学の答だけを丸暗記していったら、数字をちょっと変えて出題されたはば
りに惨憺たる成績となった高校の頃と。
 牟田さんと電話で話しているうちに、明け方までしゃべった話のことや2階で食べた豚
骨スープのラーメンの湯気と匂いが、内田さんの声を聞いた時には赤松街の測候所のそば
の県庁公舎のたたずまいやそこに住んでいた時の様々なことがよみがえってきて思わず涙
が出そうになった。

 私が佐賀に住んでいたのは小学校5年の2学期から高校卒業までの7年余りだった。
これまでの人生のうちの7分の1と覚え場長い期間ではない。中学と高校のもやもやとし
た時代を過ごした佐賀。あの時代は何だったんだろう。自分が何かわからず自分の性格を
変えたいと思っていたあの時代。外に見えている自分と本当の自分とは違っていると思っ
ていた時代。小心と傲慢が裏表になっていた時代。苦しくて悩みも多かったけど、今思い
出すのはたんぼの中の北校舎への自転車通学、畦を行く花嫁行列、多布施川のすずかけの
木、台風の南の風の声、佐賀平野の麦の緑、れんげの桃、菜の花の黄、天山、夕陽、基山
の草スキー、クラスマッチの歓声、佐高祭の時の生徒会室、そしてそこでいっしょに過ご
した人達の顔と声…。
 リリアン・ヘルマンの「ペンティメント」の巻頭にこういう一節がある。「カンヴァス
に描かれた絵の、古くなった絵の具が年月の経つうちに透明になってくることがある。す
ると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。この現象はペンティメントと
呼ばれる。描いた人間がもとの絵を後悔し、心変りをしたということである。言い換えれ
ば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現し、再び表れてくるもだと
言えるのかもしれない」

 いまや、私の人生の絵も来年は50代に入る時となり、表面の絵の具はいささかくたび
れ、いらぬ厚みも増してきたけれど、久しぶりの友人の電話の声で、その底からよみがえ
るのは佐賀で過ごした10代の頃と変わらない自分の姿なのである。

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